泡沫紀行   作:みどりのかけら

1545 / 1545
夏霧の沈む峡間を歩いていると、遠い地鳴りのような振動が地面から滲み上がってきた。
靴底へ伝わるその律動は、まだ見えぬ巨大な構造の気配だけを先に運んでいた。


谷沿いの岩壁には薄い水膜が張りつき、指先で触れると硝子片のような冷えが残った。
湿った風は衣の内側へ潜り込み、歩幅の熱を静かに奪っていく。


夕暮れ前の空は灰青色へ傾き、雲の裂け目だけが白く濁っていた。
その奥に、空を塞ぐほど巨大な白影がぼんやり浮かび始めていた。



1545 巨壁の水律機構

湿った峡路を歩き続けるうち、霧の奥で巨大な白壁が空を塞いでいた。

その表面には絶えず水が滲み、硝子質の光が曇天を鈍く押し返していた。

 

 

谷底から吹き上がる冷気が膝裏へ絡みつき、汗の残った皮膚を薄く硬化させた。

足裏では細かな砂礫が湿り、踏むたび沈黙だけが深く軋んだ。

 

 

壁面には幾筋もの水脈が走り、それぞれ異なる脈動で揺れていた。

耳へ届く以前に、その振動は胸骨へ鈍い圧として触れてきた。

 

 

岸辺には灰色の布片が石へ貼りついていた。

乾ききらぬ塩気が指へ残り、そこに滞在した誰かの温度差だけが薄く漂った。

 

 

水面は空を映さず、底知れぬ群青をゆっくり折り曲げていた。

覗き込むたび視界の奥行きが崩れ、首筋へ重さが沈殿した。

 

 

巨壁の継ぎ目には淡い藍光が脈打っていた。

近づくと霧粒が睫毛へ密着し、瞼の開閉さえ鈍くなる。

 

 

谷を巡る風は一定ではなく、ときおり逆巻いて肩を押し返した。

その力に耐えるうち、背骨の節々へ冷えた疲労が細く刺さった。

 

 

水際には無数の窪みが続いていた。

素足を浸すと浅い温度差があり、場所ごとに異なる記憶を孕んでいるようだった。

 

 

遠くで何かが崩れる響きが生まれた。

だが音というより、空気密度の変化が肺へ流れ込み、呼吸の深さだけを乱した。

 

 

壁沿いの路には白い鉱粉が積もっていた。

触れると指紋の形だけ湿り、すぐに輪郭を失った。

 

 

夕刻が近づくにつれ、水脈の光は青から鉛色へ沈み始めた。

その変化に合わせるように、谷全体の温度がわずかに下がった。

 

 

私は壁面へ掌を当てた。

内部を巡る巨大な律動が皮膚を通過し、骨の空洞へまで静かに浸透した。

 

 

その震えには怒りも慰めもなく、ただ長い循環だけが含まれていた。

脈を預けるうち、自身の歩幅までも他所の時間へ引き寄せられていく。

 

 

崖際には透明な薄膜が幾重にも揺れていた。

風を受けるたび硝子片のような匂いが生まれ、喉奥へ淡く刺さった。

 

 

霧の深部では、誰かの滞在した痕跡が幾層にも重なっていた。

火を使った形跡も声もないのに、岩肌だけが微かな体温を保っていた。

 

 

夜気が満ち始めると、水面の群青は黒へ近づいた。

その暗さは沈むというより浮き上がり、視界の縁を静かに侵食した。

 

 

私は濡れた石段へ腰を下ろした。

衣の裾から冷水が染み込み、長く歩いた脚の熱をゆっくり奪っていく。

 

 

巨壁の頂では白霧が裂け、細い月光が水脈へ触れていた。

すると無数の筋が硝子の血管のように輝き、谷全体が淡く脈打った。

 

 

その律動に包まれていると、自分の輪郭さえ水へ溶けていく感覚があった。

足裏へ残る湿度だけを確かめながら、私は再び暗い峡路を歩き始めた。

 




巨壁を離れてなお、背中には低い振動が微かに残っていた。
歩くたび骨の深部で反響し、静かな水圧の記憶だけが身体を重くした。


夜露を含んだ草を踏むと、冷えた雫が脛へ散った。
振り返った谷の奥では、淡い藍光だけが霧の内部で脈打っていた。


やがて峡路は闇へ沈み、足音さえ湿度へ吸い込まれていった。
それでも掌には、あの硝子質の壁へ触れた冷たさだけが長く残り続けていた。
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