靴底へ伝わるその律動は、まだ見えぬ巨大な構造の気配だけを先に運んでいた。
谷沿いの岩壁には薄い水膜が張りつき、指先で触れると硝子片のような冷えが残った。
湿った風は衣の内側へ潜り込み、歩幅の熱を静かに奪っていく。
夕暮れ前の空は灰青色へ傾き、雲の裂け目だけが白く濁っていた。
その奥に、空を塞ぐほど巨大な白影がぼんやり浮かび始めていた。
湿った峡路を歩き続けるうち、霧の奥で巨大な白壁が空を塞いでいた。
その表面には絶えず水が滲み、硝子質の光が曇天を鈍く押し返していた。
谷底から吹き上がる冷気が膝裏へ絡みつき、汗の残った皮膚を薄く硬化させた。
足裏では細かな砂礫が湿り、踏むたび沈黙だけが深く軋んだ。
壁面には幾筋もの水脈が走り、それぞれ異なる脈動で揺れていた。
耳へ届く以前に、その振動は胸骨へ鈍い圧として触れてきた。
岸辺には灰色の布片が石へ貼りついていた。
乾ききらぬ塩気が指へ残り、そこに滞在した誰かの温度差だけが薄く漂った。
水面は空を映さず、底知れぬ群青をゆっくり折り曲げていた。
覗き込むたび視界の奥行きが崩れ、首筋へ重さが沈殿した。
巨壁の継ぎ目には淡い藍光が脈打っていた。
近づくと霧粒が睫毛へ密着し、瞼の開閉さえ鈍くなる。
谷を巡る風は一定ではなく、ときおり逆巻いて肩を押し返した。
その力に耐えるうち、背骨の節々へ冷えた疲労が細く刺さった。
水際には無数の窪みが続いていた。
素足を浸すと浅い温度差があり、場所ごとに異なる記憶を孕んでいるようだった。
遠くで何かが崩れる響きが生まれた。
だが音というより、空気密度の変化が肺へ流れ込み、呼吸の深さだけを乱した。
壁沿いの路には白い鉱粉が積もっていた。
触れると指紋の形だけ湿り、すぐに輪郭を失った。
夕刻が近づくにつれ、水脈の光は青から鉛色へ沈み始めた。
その変化に合わせるように、谷全体の温度がわずかに下がった。
私は壁面へ掌を当てた。
内部を巡る巨大な律動が皮膚を通過し、骨の空洞へまで静かに浸透した。
その震えには怒りも慰めもなく、ただ長い循環だけが含まれていた。
脈を預けるうち、自身の歩幅までも他所の時間へ引き寄せられていく。
崖際には透明な薄膜が幾重にも揺れていた。
風を受けるたび硝子片のような匂いが生まれ、喉奥へ淡く刺さった。
霧の深部では、誰かの滞在した痕跡が幾層にも重なっていた。
火を使った形跡も声もないのに、岩肌だけが微かな体温を保っていた。
夜気が満ち始めると、水面の群青は黒へ近づいた。
その暗さは沈むというより浮き上がり、視界の縁を静かに侵食した。
私は濡れた石段へ腰を下ろした。
衣の裾から冷水が染み込み、長く歩いた脚の熱をゆっくり奪っていく。
巨壁の頂では白霧が裂け、細い月光が水脈へ触れていた。
すると無数の筋が硝子の血管のように輝き、谷全体が淡く脈打った。
その律動に包まれていると、自分の輪郭さえ水へ溶けていく感覚があった。
足裏へ残る湿度だけを確かめながら、私は再び暗い峡路を歩き始めた。
巨壁を離れてなお、背中には低い振動が微かに残っていた。
歩くたび骨の深部で反響し、静かな水圧の記憶だけが身体を重くした。
夜露を含んだ草を踏むと、冷えた雫が脛へ散った。
振り返った谷の奥では、淡い藍光だけが霧の内部で脈打っていた。
やがて峡路は闇へ沈み、足音さえ湿度へ吸い込まれていった。
それでも掌には、あの硝子質の壁へ触れた冷たさだけが長く残り続けていた。