泡沫紀行   作:みどりのかけら

1546 / 1554
雪代を含んだ風が峡の入口を満たし、私は白く曇る道を歩いていた。
濡れた草が裾へ絡みつき、冷えた水気が脛の内側をゆっくり這い上がる。


遠い崖地から、硬いものを削るような微かな振動が流れていた。
それは音というより、空気の密度だけを僅かに変える残響だった。


道端には削られた木片が散り、どれも長い流転を終えた骨のように白んでいた。
指先で触れると、乾いた繊維の奥から、まだ川霧の湿度が滲み出してきた。



1546 流木幻匠の工房譚

薄い雪解けの水を踏みながら、私は峡の底へ降りていった。

濡れた石は硝子片のように冷え、足裏へ鈍い痛みを返していた。

 

 

谷には白い霧が沈み、木々の節から淡い樹脂の匂いが滲んでいた。

湿った風が袖の内へ入り込み、肩骨のあたりをゆっくり軋ませる。

 

 

水際には流木が幾重にも積み重なっていた。

それらは長い漂泊ののちに辿り着いた骨のようで、表面には淡い銀色の粉が残っていた。

 

 

私は一本を拾い上げた。

乾ききらぬ木肌が掌へ吸いつき、内部に閉じ込められた冷気が脈へ染み込んできた。

 

 

峡の奥では、削られた木屑が風に舞っていた。

誰かの営みは見えなかったが、空気だけが微かに均衡を失っていた。

 

 

崖沿いの斜面に、小さな工房らしき影が埋まっていた。

壁には半透明の板が掛けられ、曇天を受けて青白く濁っている。

 

 

入口へ触れると、指先に乾いた振動が返った。

長く撫で続けられた木の癖だけが、そこに残されていた。

 

 

内部には流木から削り出された器や枠が並び、どれも硝子を抱え込むような形をしていた。

薄膜のような硝子面には、峡を流れる水影が静かに閉じ込められている。

 

 

私はひとつの器へ手を差し入れた。

内側は意外なほど温かく、皮膚の熱をゆっくり吸い返してきた。

 

 

棚の端には、未完成らしい硝子片が積まれていた。

曇った断面の奥で、暗い影だけが柔らかく揺れていた。

 

 

外では庄川に似た広い流れが雪水を運び、岸辺の石を鈍く濡らしていた。

水音は耳へ届かず、膝裏へ重さとして伝わってくる。

 

 

私は工房の裏手へ回り、削り屑の積もる窪地へ降りた。

踏み込むたび、湿った木片が脛へ絡みつき、腐葉の熱が足首を包んだ。

 

 

そこには焼かれた硝子砂の痕が残っていた。

灰はまだ微かな温度を宿し、指先へ乾いた痺れを移してくる。

 

 

谷を抜ける風が硝子板を揺らし、淡い反射を壁へ散らした。

その光は水底の鱗のように不安定で、胸骨の内側まで冷やしていった。

 

 

私は長椅子へ腰を下ろした。

木の沈み込みが背筋へ沿い、長く歩き続けた疲労だけを静かに浮かび上がらせる。

 

 

工房には誰の姿もなかった。

それでも器の配置や削り跡には、几帳面な温度差が薄く残響していた。

 

 

ひび割れた硝子の一枚へ掌を重ねると、内部に閉じ込められた影が微かに揺れた。

水辺を漂っていた流木たちが、まだ遠い流域の湿度を抱えている気配がした。

 

 

やがて霧が濃くなり、峡全体が乳白色へ沈み始めた。

私は工房を離れ、濡れた坂道をゆっくり登っていった。

 

 

背後では硝子同士の触れ合う微かな震えだけが続いていた。

その硬質な余韻は、夜気に冷えた肩へ薄く積もり、しばらく離れなかった。

 




峡を抜けたあとも、掌には硝子の冷えが残っていた。
指の節を曲げるたび、薄い影が皮膚の裏で軋むようだった。


暮れ際の風は川砂の匂いを含み、肩へ静かに沈み込んできた。
私は歩幅を変えぬまま、薄青い霧へ身体を溶かしていく。


背後の谷では、流木と硝子が触れ合う気配だけが続いていた。
その透明な残響は、夜の湿度へ静かに沈みながら、長く消えなかった。
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