濡れた草が裾へ絡みつき、冷えた水気が脛の内側をゆっくり這い上がる。
遠い崖地から、硬いものを削るような微かな振動が流れていた。
それは音というより、空気の密度だけを僅かに変える残響だった。
道端には削られた木片が散り、どれも長い流転を終えた骨のように白んでいた。
指先で触れると、乾いた繊維の奥から、まだ川霧の湿度が滲み出してきた。
薄い雪解けの水を踏みながら、私は峡の底へ降りていった。
濡れた石は硝子片のように冷え、足裏へ鈍い痛みを返していた。
谷には白い霧が沈み、木々の節から淡い樹脂の匂いが滲んでいた。
湿った風が袖の内へ入り込み、肩骨のあたりをゆっくり軋ませる。
水際には流木が幾重にも積み重なっていた。
それらは長い漂泊ののちに辿り着いた骨のようで、表面には淡い銀色の粉が残っていた。
私は一本を拾い上げた。
乾ききらぬ木肌が掌へ吸いつき、内部に閉じ込められた冷気が脈へ染み込んできた。
峡の奥では、削られた木屑が風に舞っていた。
誰かの営みは見えなかったが、空気だけが微かに均衡を失っていた。
崖沿いの斜面に、小さな工房らしき影が埋まっていた。
壁には半透明の板が掛けられ、曇天を受けて青白く濁っている。
入口へ触れると、指先に乾いた振動が返った。
長く撫で続けられた木の癖だけが、そこに残されていた。
内部には流木から削り出された器や枠が並び、どれも硝子を抱え込むような形をしていた。
薄膜のような硝子面には、峡を流れる水影が静かに閉じ込められている。
私はひとつの器へ手を差し入れた。
内側は意外なほど温かく、皮膚の熱をゆっくり吸い返してきた。
棚の端には、未完成らしい硝子片が積まれていた。
曇った断面の奥で、暗い影だけが柔らかく揺れていた。
外では庄川に似た広い流れが雪水を運び、岸辺の石を鈍く濡らしていた。
水音は耳へ届かず、膝裏へ重さとして伝わってくる。
私は工房の裏手へ回り、削り屑の積もる窪地へ降りた。
踏み込むたび、湿った木片が脛へ絡みつき、腐葉の熱が足首を包んだ。
そこには焼かれた硝子砂の痕が残っていた。
灰はまだ微かな温度を宿し、指先へ乾いた痺れを移してくる。
谷を抜ける風が硝子板を揺らし、淡い反射を壁へ散らした。
その光は水底の鱗のように不安定で、胸骨の内側まで冷やしていった。
私は長椅子へ腰を下ろした。
木の沈み込みが背筋へ沿い、長く歩き続けた疲労だけを静かに浮かび上がらせる。
工房には誰の姿もなかった。
それでも器の配置や削り跡には、几帳面な温度差が薄く残響していた。
ひび割れた硝子の一枚へ掌を重ねると、内部に閉じ込められた影が微かに揺れた。
水辺を漂っていた流木たちが、まだ遠い流域の湿度を抱えている気配がした。
やがて霧が濃くなり、峡全体が乳白色へ沈み始めた。
私は工房を離れ、濡れた坂道をゆっくり登っていった。
背後では硝子同士の触れ合う微かな震えだけが続いていた。
その硬質な余韻は、夜気に冷えた肩へ薄く積もり、しばらく離れなかった。
峡を抜けたあとも、掌には硝子の冷えが残っていた。
指の節を曲げるたび、薄い影が皮膚の裏で軋むようだった。
暮れ際の風は川砂の匂いを含み、肩へ静かに沈み込んできた。
私は歩幅を変えぬまま、薄青い霧へ身体を溶かしていく。
背後の谷では、流木と硝子が触れ合う気配だけが続いていた。
その透明な残響は、夜の湿度へ静かに沈みながら、長く消えなかった。