泡沫紀行   作:みどりのかけら

1548 / 1553
潮の端に立つ前から、私はすでに湿った気配に包まれていた。
空と海の区別は薄く、境界は布のようにたわんでいる。
足を踏み出すたび、地面は確かさを失い、代わりに微細な振動が骨へ染み込んでくる。


巨い弦の影は遠くからでも視認できたが、それは形というより圧の集積だった。
視界の奥で光が折れ、層を重ねながら沈んでいく。
私はその揺らぎを追うように、歩行の速度をわずかに整える。


風は一定の方向を持たず、身体の輪郭を試すように絡みつく。
その中で、私の存在は少しずつ薄い膜へと変わっていく。
旅の始まりはすでに、終わりの予感と同じ密度を持っていた。



1548 潮風の巨弦アーチ

潮の縁に近い泡沫の地平へ、私は徒歩のまま入り込んでいく。

そこには巨い弦のように張り巡らされた構造が、空と海の境界を曖昧にしていた。

風は常に斜めに流れ、足元の砂ではなく光の粒を巻き上げていた。

 

 

歩を進めるごとに、身体は薄い圧に押し返される。

骨の内側にまで湿った風が入り込み、呼吸の輪郭をずらしていく。

私はその抵抗を確かめるように、さらに一歩を重ねる。

 

 

巨弦の下では、空間そのものがわずかに震えていた。

硝子を思わせる透明な魂が、見えない場所で共鳴している気配がある。

触れられぬはずのものが、肌の表面をかすかに撫でていく。

 

 

足裏には硬いはずの地が、時折やわらかく沈む錯覚を返す。

そのたびに重心が遅れて揺れ、私は自分の位置を確かめ直す。

歩行という行為だけが、ここでは唯一の確かな輪郭だった。

 

 

潮の匂いは濃く、舌の奥にまで冷たく残留する。

風は一定ではなく、断続的に方向を変えながら身体を試す。

私はその流れの中で、時間の密度が変わるのを感じていた。

 

 

構造体の影は水面へ落ち、揺らぎながら幾重にも重なる。

その影の重なりは、存在しない階段のように見えた。

私は無意識に、その段差を踏むように歩幅を調整する。

 

 

硝子の魂は、直接には見えないが確かにそこに在る。

光が折れるたびに、内部で微細な記憶のような揺れが走る。

それは誰のものでもないのに、どこか懐かしい温度を持つ。

 

 

巨弦の間を抜ける風は、時に低い唸りを帯びる。

その音なき振動が胸郭を震わせ、内側の空洞を強調する。

私は歩きながら、自分の輪郭が薄くなる感覚を受け入れる。

 

 

足元の地面は、潮の気配を吸って重く冷えている。

しかし一歩離れるごとに、逆に軽く乾いていく。

その変化が、旅の進行を静かに示していた。

 

 

遠くに見える弦の交差点は、歪んだ光の結び目のようだった。

そこへ向かうほどに、視界は層を増し、奥行きが反転する。

私は距離という概念がほどける感覚に身を委ねる。

 

 

身体の内側では、風と潮が混ざり合い別の流れを作る。

それは血流とは異なる速度で、静かに循環していた。

私はその違和を拒まず、歩行に同期させていく。

 

 

構造の影に触れるたび、指先に微細な冷たさが走る。

それは物質ではなく、記憶の欠片のように消えていく。

触れた痕跡だけが、遅れて思考の端に残る。

 

 

足を進めるごとに、空はより薄く引き伸ばされていく。

雲の形は固定されず、呼吸するように変質している。

私はその変化を見上げながら、地面を確かに踏み続ける。

 

 

潮風はときに鋭く、皮膚の上に細い線を描く。

その痛みはすぐに鈍い感覚へと溶け、境界を失う。

私はそれを痛みと呼ぶことをやめていく。

 

 

巨弦の内部では、光が遅れて届くように見える。

時間そのものが弦に絡め取られ、伸縮しているのかもしれない。

私はその歪みの中を、ただ歩幅で測り続ける。

 




巨弦の影を抜けた先でも、潮の匂いは消えずに残り続けていた。
それは場所ではなく、身体の内部に移された記憶のようだった。
私は歩き続けているのか、まだその場に留まっているのか判別できない。


空はわずかに軽くなり、重力の迷いはゆっくりとほどけていく。
しかしその軽さは解放ではなく、別の層への移行に近い。
足裏には依然として、微かな振動が残響として続いている。


振り返ることなく進んでいるにもかかわらず、背後の気配は消えない。
硝子の魂は今もどこかで共鳴し、見えない波紋を広げている。
私はその余韻を抱えたまま、次の泡沫へと溶けていく。
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