泡沫紀行   作:みどりのかけら

1549 / 1552
翠霧の縁に立つと、世界は薄い膜のように揺れていた。
足元の土は乾きと湿りの境を曖昧にし、踏み出すたびに形を変える。
私はその不確かな地面に身を預け、境界へと歩みを進める。


風は吹いていないはずなのに、肌の表面だけが静かに押されていた。
呼吸の奥に冷えた気配が入り込み、内側の時間をわずかに遅らせる。
その遅延の中で、私はまだ名づけられぬ森の入口を見ている。


樹々は遠景としてではなく、湿度の密度として立ち上がっていた。
視線を向けるたび、輪郭は溶け、別の位置に再構築される。
私はそれを追わず、ただ歩行の始まりだけを確かめていく。



1549 翠霧に眠る樹魂の聖域

翠霧に沈む樹海へ足を踏み入れた瞬間、世界の輪郭は湿度にほどけた。

足裏に触れる地は、積年の葉層が沈黙のまま呼吸しているようだった。

私はその柔らかな抵抗に身を預け、歩幅をわずかに小さくする。

 

 

樹々の幹は黒緑の皮膜をまとい、触れれば冷えた脈動が返る。

指先をかすめた苔は、微細な水を抱え込み、肌へ静かに移ろう。

その湿りは衣の内側へも忍び込み、体温の境界を曖昧にした。

 

 

上方では枝葉が重なり合い、光は硝子の欠片のように分断される。

その断片は地面へ落ちる前に霧へ溶け、影だけを残して消える。

私はその影の揺らぎを追い、見えない道筋を確かめていく。

 

 

歩みを進めるごとに、足裏の感覚は鈍く沈み込んでいった。

湿地とも乾いた土ともつかぬ層が、私の重さを静かに吸収する。

呼吸のたび、胸の内側に冷えた空気が薄く積もっていく。

 

 

風はほとんど動かず、しかし常に肌の表面を撫でていた。

その不在のような圧力が、背後から歩みを押し続ける。

私は振り返ることなく、その気配だけを背骨に受け止めた。

 

 

樹間に漂う霧は濃淡を繰り返し、距離の感覚を剥ぎ取っていく。

近いものほど遠く、遠いものほど近いという錯覚が肌に残る。

そのねじれた距離の中で、私は歩行の確かさだけを頼りにする。

 

 

時折、幹の裂け目に古い温度が残っているのを感じた。

誰かの気配とも呼べぬ余韻が、樹皮の奥に沈殿している。

私はそれに触れず、ただ通過することで記録として受け取る。

 

 

地表近くでは、根が複雑に絡み合い網のような層を成していた。

その上を踏むたび、微かな反発が骨へと遅れて伝わる。

私はその遅延を通じて、この森の深度を測っていた。

 

 

霧の密度が増すにつれ、視界は音のない波紋へと変わる。

存在は輪郭を失い、ただ圧の差として知覚されるだけになる。

私はその圧の変化に従い、進行方向を微かに修正した。

 

 

身体の内側に、冷えとは異なる重さが蓄積していく。

それは疲労ではなく、森そのものが流入してくるような感触だった。

私はその侵入を拒まず、歩行のリズムへと溶かしていく。

 

 

やがて樹々の密度がわずかに開き、空間に沈黙の広がりが生まれた。

そこには言葉の痕跡ではなく、時間の滞留だけが残っている。

私はその滞留の中心へ向けて、さらに足を進めた。

 

 

光はもはや光として機能せず、薄い膜として視界に貼り付く。

その膜に触れるたび、皮膚の内側が逆向きに呼吸する感覚が走る。

私はその反転に身を委ね、感覚の境界を手放していく。

 

 

「影を宿す硝子」という名の構造が、樹々の奥にうっすらと見えた。

それは物質ではなく、湿度の凝縮としてそこに在るだけだった。

私はそれに近づくほど、自身の輪郭が透明化していくのを知る。

 

 

足元の地面は次第に柔らかさを失い、静かな硬度へと変わる。

しかしその硬さは拒絶ではなく、受容としての質感を持っていた。

 




硝子の核は、触れる前からすでに遠ざかり始めていた。
その揺らぎは消失ではなく、空間そのものへの溶解に近い。
私はそこに残された圧の痕跡だけを、皮膚の奥に受け取る。


足元の感覚は薄れ、地面と身体の区別が静かに失われていく。
影は私から離れ、別の歩幅で森の奥へと沈んでいった。
その分離は痛みではなく、均衡の回復のように感じられた。


翠霧の森を抜けたはずの身体に、まだ湿度が残留している。
それは衣服の内側ではなく、骨の隙間に静かに滞留していた。
私はその残響を携えたまま、次の無名の地平へと歩き出す。
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