泡沫紀行   作:みどりのかけら

1553 / 1561
硝子の地平がまだ名を持たないまま揺れている。
私はその揺れに足を置き、境界の薄さを確かめる。
湿った春は遠くで層を折りたたむように沈黙していた。


歩き出す前から、すでに足裏には土の記憶が滲んでいる。
それは球根の眠りに触れたような微かな重みであった。
空気は透明に近く、しかし確かに圧を帯びている。


春律園の方角だけが、硝子の歪みとして浮かび上がる。
その歪みは視線ではなく、皮膚の奥で感じ取られる。
私はまだ名付けられない振動の中へ歩幅を合わせていく。



1553 彩眠核の春律園

硝子の薄い地平を歩き出した。

春の湿度が皮膚に薄く貼りつく。

遠い影の気配だけが足裏に残る。

 

 

春律園の輪郭が霧の奥で揺れている。

足音は地面に吸われ、戻る気配もない。

硝子質の空気が呼吸を遅くする。

 

 

チューリップの球根が土の奥で眠る気配がある。

踏みしめるたび、内部で微かな圧が返る。

土と水の境界が柔らかく崩れている。

 

 

歩くたびに硝子の地層が微かに鳴る。

その音は風よりも遅く皮膚へ届く。

見えない誰かの歩幅だけが残響を刻む。

 

 

春律園の入口は光ではなく温度で開く。

そこでは視界が薄い膜のように揺れる。

呼吸するたび内部の湿度が増していく。

 

 

足裏に伝わる地の鼓動が緩やかに変質する。

乾いた部分と湿った部分の差が消えていく。

歩行は意志よりも重力に近い振動となる。

 

 

春の園路に、球根の夢が微細な圧として埋まる。

歩くほどにその圧は内部へ沈み込む。

遠景の影がわずかに色温度を変える。

 

 

硝子の地面は歩行に応じて柔らかく呼吸する。

その呼吸は湿った春の記憶に似ている。

足跡は残らず、ただ温度だけが遅れて追う。

 

 

園の中心へ進むほど空気は重さを帯びる。

皮膚は見えない水膜に包まれ始める。

その内側で微かな芽の気配が震える。

 

 

硝子の層は歩くたびに薄くひび割れる。

割れ目から春の匂いがゆっくりと滲む。

その変化は静かに内部の時間を遅らせる。

 

 

春律園の奥で、空気は球根の鼓動に似た律動を帯びる。

足元の硝子は柔らかく沈み、戻らない余韻を残す。

その余韻は歩行のたびに形を変える。

 

 

湿った風が皮膚の境界を曖昧にほどく。

その曖昧さの中で歩行だけが確かに続く。

硝子の大地は微かに脈打ち、春を内包する。

 

 

歩幅の下で眠る球根が静かに光を孕む。

その光は地層を通じてわずかに漏れ出す。

足裏に触れる振動は、遠い芽吹きの予兆となる。

 

 

硝子の裂け目に春の気配が溜まり始める。

その溜まりは歩行に反応し、微かに揺れる。

皮膚はその揺れを遠い記憶のように受け取る。

 

 

春律園の空は、硝子越しの深さを持つ。

その深さに足を踏み入れるたび重さが増す。

しかし歩行は止まらず、静かな圧として続く。

 

 

球根の眠りが足裏の振動でわずかにほどける。

そのほどけは空気へと静かに拡散する。

春の重さが一層深く沈み込み始める。

 

 

硝子の大地に残る足跡はすでに温度だけとなる。

その温度は遅れて歩行の軌跡をなぞる。

風のない空間で時間だけがわずかに歪む。

 

 

春律園の奥で、眠りの層が薄く震え続ける。

その震えは歩行の終わりを知らずに広がる。

球根の夢が静かに光へと還り始める。

 

 

春律園の最後の層で、歩行は静かに透明へ溶ける。

球根の春は硝子の大地を抜け、遠い空気へと還っていく。

 




硝子の裂け目は静かに閉じ、春の残響だけが残る。
歩き続けた感覚は地面ではなく空気に溶けていた。
球根の夢はすでに遠い層へと沈み込んでいる。


足裏に残る重さはもはや地形ではなく記憶の密度である。
その密度はゆっくりと薄まり、透明へと還っていく。
風のない空間で時間だけが微かに反転する。


春律園の気配は消えず、しかし輪郭を持たない。
私はその不在の温度の中にしばらく留まり続ける。
やがて歩行の余韻だけが、静かに次の層へと沈む。
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