私はその曖昧な境界に足を踏み入れ、世界の硬さが失われていくのを感じる。
遠くで漆のような光沢が揺れ、まだ名を持たぬ地形の気配だけが残っている。
足裏に触れる大地は、薄く研がれた漆器の内側のように滑らかで冷たい。
歩くたびに微細なひびが光を返し、身体の重さが静かに再配分されていく。
呼吸は深くなりすぎず、ただ均衡を探るための運動として続いている。
硝子の霧の奥で、黒蒼の焔がまだ遠い影として滲んでいた。
その存在は熱ではなく圧として知覚され、進行方向をわずかに歪める。
私はその歪みに従うように、歩行の速度を一定に保つ。
硝子の霧に覆われた異界を、私は徒歩で進む。
足裏に触れる地は、春の高岡漆器の艶を思わせる漆黒の光を帯びる。
空は割れた器の内側のように淡く揺れている。
湿った風が衣の隙間へ入り込み、骨の輪郭を静かに撫でていく。
遠くで崩れる気配があり、音の代わりに温度だけが遅れて届く。
歩みを進めるたび、地表の艶がわずかに沈み返る感触がある。
硝子質の草原が広がり、踏むたびに微細なひびが光を吐く。
その光は冷たく、しかし掌に似た柔らかさを持っていた。
私はその圧に押されるように呼吸の深さを変えていく。
漆の層のような丘を越えると、黒蒼の焔が静かに立ち上がる。
炎は燃えるというより、空間の濃度を歪めて存在している。
その縁に触れた瞬間、皮膚の内側が薄く反転する感覚が走る。
足元の硝子は春の湿度を含み、わずかに軋む音を返す。
その音は記憶の奥で誰かが歩いた残響のようにも思えた。
しかし形はなく、ただ温度の差だけがそこに残されている。
黒い水脈が地表を縫い、光を吸い込みながら流れていく。
指先を近づけると、冷たさよりも重さが先に触れてくる。
その重さが歩行の速度をゆるやかに引き下げていく。
遠景に見えるのは器の破片のような山列である。
その稜線は漆器の縁のように滑らかで、しかしどこか鋭い。
私はその輪郭に沿って進むことで均衡を保っている。
風は時折、硝子の内側を通過するような透明な圧を持つ。
その圧は皮膚の奥に入り込み、歩行の方向を微かにずらす。
それでも私は足を止めず、歪みの中心へと向かう。
黒蒼の焔の根元には、溶けかけた鏡のような湖が広がる。
湖面は触れる前から指先の熱を奪い、境界を曖昧にする。
私はその縁に立ち、沈黙の深さを足裏で測っていく。
水面には春の漆器のような光沢が重なり、層を成している。
その層は呼吸に合わせてわずかに伸縮しているように見える。
私はそこに自らの影が溶ける速度を静かに見届ける。
湖の奥から、言葉にならない気配が波紋として浮かび上がる。
それは音ではなく、過ぎ去った歩行の残熱に近いものだった。
私はその残熱に導かれるようにさらに一歩を踏み出す。
足裏に伝わる冷えは次第に柔らかさへと変質していく。
硝子の大地は漆の層へと溶け込み、境界が失われていく。
私はその変化の中心で、自身の重さだけを確かめている。
黒蒼の焔が静かに揺れ、空間の奥行きを裏返していく。
その揺らぎは視界ではなく皮膚に直接触れてくる。
私はその圧に抗うことなく、歩幅を均一に保つ。
遠くの破片山は近づくほどに滑らかな曲面へと変わっていく。
最後の境界が溶けた瞬間、足裏の抵抗は完全に消え去っていた。
硝子と漆と焔の区別は失われ、ただ均質な沈黙だけが残る。
私はそこに立っているのか、まだ歩いているのか判別できない。
空間は折り畳まれるように静まり、影だけが遅れて漂っている。
過ぎ去った圧の痕跡が皮膚の内側に残り、微かな温度差として揺れる。
それは記憶ではなく、まだ続いている運動の余韻のようである。
遠くで器の縁が閉じるような気配があり、世界は輪郭を失っていく。
私はその中心で、歩行という行為だけを最後まで手放さずにいる。
やがて残響も消え、ただ歩くという事実だけが静かに沈殿する。