泡沫紀行   作:みどりのかけら

1556 / 1557
硝子の霧は春の層を帯びながら、地表の輪郭をゆるやかに消していた。
私はその曖昧な境界に足を踏み入れ、世界の硬さが失われていくのを感じる。
遠くで漆のような光沢が揺れ、まだ名を持たぬ地形の気配だけが残っている。


足裏に触れる大地は、薄く研がれた漆器の内側のように滑らかで冷たい。
歩くたびに微細なひびが光を返し、身体の重さが静かに再配分されていく。
呼吸は深くなりすぎず、ただ均衡を探るための運動として続いている。


硝子の霧の奥で、黒蒼の焔がまだ遠い影として滲んでいた。
その存在は熱ではなく圧として知覚され、進行方向をわずかに歪める。
私はその歪みに従うように、歩行の速度を一定に保つ。



1556 漆黒蒼焔の器

硝子の霧に覆われた異界を、私は徒歩で進む。

足裏に触れる地は、春の高岡漆器の艶を思わせる漆黒の光を帯びる。

空は割れた器の内側のように淡く揺れている。

 

 

湿った風が衣の隙間へ入り込み、骨の輪郭を静かに撫でていく。

遠くで崩れる気配があり、音の代わりに温度だけが遅れて届く。

歩みを進めるたび、地表の艶がわずかに沈み返る感触がある。

 

 

硝子質の草原が広がり、踏むたびに微細なひびが光を吐く。

その光は冷たく、しかし掌に似た柔らかさを持っていた。

私はその圧に押されるように呼吸の深さを変えていく。

 

 

漆の層のような丘を越えると、黒蒼の焔が静かに立ち上がる。

炎は燃えるというより、空間の濃度を歪めて存在している。

その縁に触れた瞬間、皮膚の内側が薄く反転する感覚が走る。

 

 

足元の硝子は春の湿度を含み、わずかに軋む音を返す。

その音は記憶の奥で誰かが歩いた残響のようにも思えた。

しかし形はなく、ただ温度の差だけがそこに残されている。

 

 

黒い水脈が地表を縫い、光を吸い込みながら流れていく。

指先を近づけると、冷たさよりも重さが先に触れてくる。

その重さが歩行の速度をゆるやかに引き下げていく。

 

 

遠景に見えるのは器の破片のような山列である。

その稜線は漆器の縁のように滑らかで、しかしどこか鋭い。

私はその輪郭に沿って進むことで均衡を保っている。

 

 

風は時折、硝子の内側を通過するような透明な圧を持つ。

その圧は皮膚の奥に入り込み、歩行の方向を微かにずらす。

それでも私は足を止めず、歪みの中心へと向かう。

 

 

黒蒼の焔の根元には、溶けかけた鏡のような湖が広がる。

湖面は触れる前から指先の熱を奪い、境界を曖昧にする。

私はその縁に立ち、沈黙の深さを足裏で測っていく。

 

 

水面には春の漆器のような光沢が重なり、層を成している。

その層は呼吸に合わせてわずかに伸縮しているように見える。

私はそこに自らの影が溶ける速度を静かに見届ける。

 

 

湖の奥から、言葉にならない気配が波紋として浮かび上がる。

それは音ではなく、過ぎ去った歩行の残熱に近いものだった。

私はその残熱に導かれるようにさらに一歩を踏み出す。

 

 

足裏に伝わる冷えは次第に柔らかさへと変質していく。

硝子の大地は漆の層へと溶け込み、境界が失われていく。

私はその変化の中心で、自身の重さだけを確かめている。

 

 

黒蒼の焔が静かに揺れ、空間の奥行きを裏返していく。

その揺らぎは視界ではなく皮膚に直接触れてくる。

私はその圧に抗うことなく、歩幅を均一に保つ。

 

 

遠くの破片山は近づくほどに滑らかな曲面へと変わっていく。

 




最後の境界が溶けた瞬間、足裏の抵抗は完全に消え去っていた。
硝子と漆と焔の区別は失われ、ただ均質な沈黙だけが残る。
私はそこに立っているのか、まだ歩いているのか判別できない。


空間は折り畳まれるように静まり、影だけが遅れて漂っている。
過ぎ去った圧の痕跡が皮膚の内側に残り、微かな温度差として揺れる。
それは記憶ではなく、まだ続いている運動の余韻のようである。


遠くで器の縁が閉じるような気配があり、世界は輪郭を失っていく。
私はその中心で、歩行という行為だけを最後まで手放さずにいる。
やがて残響も消え、ただ歩くという事実だけが静かに沈殿する。
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