私はその上を歩きながら、まだ形を持たない記憶の気配を踏んでいる。
空気は湿度というよりも未整理の時間として肌に貼りつく。
遠くに硝子の輪郭が立ち上がる前兆がある。
それは視界というよりも皮膚の内側で予感される歪みである。
足裏の感触だけが、進行方向を確かに示している。
風は断片化された温度を運び、途中でほどけて消える。
私はそれを受け取りながら、名前のない箱庭へ近づいていく。
歩行は意思ではなく、記憶の残響に押されて続いている。
薄硝子の記憶箱庭へと続く湿った道を歩く。
足裏に沈む灰土が微かな温度を返す。
風は影のように皮膚をなぞり消える。
呼吸のたび喉に冷えた粒子が積もる。
遠くで割れた光が地表に滲んでいる。
歩みは音を持たず湿度だけを増幅させる。
箱庭の外縁には記憶の沈殿が層を成す。
指先が空気に触れると重さだけが残る。
見えない圧が肩から静かに降下する。
硝子の壁に似た輪郭が地平へ伸びている。
そこに触れると過去の温度が微かに跳ねる。
足元の土は柔らかくも記録の硬さを孕む。
記憶を蒐集する静寂の場が近づいている。
音の欠落が逆に密度を増していく。
皮膚の表面に薄い膜が張りつく感覚がある。
透明な層の内側で時間が折れ曲がる。
歩くたびに膝裏へ冷気が遅れて届く。
視界は曇りではなく密度の変化で歪む。
硝子の箱庭は呼吸するように膨張と収縮を繰り返す。
その揺れが足裏の感覚と同調してくる。
境界がどこか曖昧にほどけていく。
私は記憶の堆積に足を沈めながら進む。
指が空を掴むたび過去のざらつきが残る。
温度のない風が背中を押し続ける。
沈黙の層には無数の痕跡が浮遊している。
それらは触れる前に形を失い流れていく。
皮膚は見えない擦過に満たされている。
箱庭の中心へ近づくほど重力が変質する。
歩幅がわずかに遅れ空間に引き戻される。
足首に絡む気配が記録のように重い。
硝子の地面は鏡ではなく吸収体として在る。
踏み込むたびに過去の断片が沈み込む。
その沈黙が胸の奥で微かに共鳴する。
私は触れ続けることでしか進めない。
空気の粘度が増し呼吸が細くなる。
それでも歩行は止まらず続いていく。
箱庭の壁面に無数の層が折り重なる。
記憶は文字ではなく温度差として保存される。
指先に触れた瞬間だけ輪郭が生まれる。
視界の端で透明な影が揺れては消える。
その揺れは私の体内の水分と同期する。
境界線が内側へと浸透してくる。
硝子の裂け目から冷たい風圧が漏れる。
そこに手を差し入れると時間が軋む。
軋みは音ではなく圧として残存する。
記憶の箱庭は静かに私を包囲していく。
足元の感触が次第に柔らかさを失う。
代わりに密度だけが増殖していく。
私は歩行という行為の輪郭を失いかける。
それでも皮膚は確かに空間を擦っている。
硝子の内側で何かが私を観測している。
最後の層は極端な静寂で構成されている。
そこでは重さだけが唯一の確かな現象となる。
私はその重さに沈みながらさらに歩を進める。
箱庭の中心で記憶は静止し流動をやめる。
触れた指先が過去と現在の境界を曖昧にする。
その瞬間だけ身体は世界と完全に一致する。
そして私はまだ歩いているという事実だけが残る。
硝子の内側でも外側でもない場所を通過する。
記憶を蒐集する静寂が皮膚の奥に沈殿していく。
硝子の内側で沈んだ時間が微かに再浮上している。
私はその揺れの中から、歩いた痕跡だけを拾い上げる。
足裏の感触はすでに境界を失い、均質な重さへと変わっている。
記憶の箱庭は閉じるのではなく、静かに密度を変えている。
そこに触れた指先の記録だけが、遅れて皮膚へ戻ってくる。
風はもはや流れではなく、薄い圧の層として残っている。
私はなおも歩いていたという事実の輪郭だけを抱えている。
硝子の向こうとこちらの区別は、湿度の差として溶けている。
静寂は終わらず、ただ形を変えて続いている。