硝子の魂が宿るという噂は、湿った風の層に溶けては戻り、確かな輪郭を持たないまま足元へ沈んでいた。
歩き出す前の静けさだけが、深さの方向を示していた。
春の海はまだ眠りの途中で、ホタルイカの光は遠い胎動のように海面下で脈打っていた。
私はその脈を直接見るのではなく、皮膚に触れる圧として受け取り、足裏に沈む不確かな方向へ従っていた。
歩くという行為はすでに意思ではなく、湿度に押し出される反射へ変わっていた。
硝子回廊へ続く裂け目は、海と海でないものの境界にだけ現れる。
そこに立つと温度がわずかに遅れて追いつき、身体の輪郭が一瞬だけ薄くなる。
私はその薄さを恐れではなく、旅の入口として受け入れていた。
泡沫の海縁を歩くたび、足裏に冷たい圧が沈む。
影を宿す硝子の気配が、遠い層で揺れていた。
私はその層へ向けて、言葉なき旅を続ける。
春の暗い海面が、微光の群れを呼吸のように吐く。
光は粒となり、足元の影を薄く溶かしていく。
歩くたびに湿度が肌へ絡み、境界がほどける。
海底へ落ちる回廊は、音ではなく圧で形を持つ。
硝子の壁面に触れると、冷えが骨へ移ろう。
そこに残る気配は、遠い群舞の余韻だった。
光の粒は螺旋を描き、視界の奥で群れを成す。
私はその流れに沿い、足を沈める深さを測る。
湿った風圧が背中を押し、進行だけを許す。
硝子回廊の内側は、温度差だけで時間を示す。
触れた指先に残る冷えが、記憶のように滲む。
遠くで海鳴りにも似た残響が、層を揺らす。
群舞する星霊は、ホタルイカの影を借りて漂う。
その動きは視線ではなく、皮膚で読むしかない。
私は立ち止まり、圧の流れに身を委ねる。
回廊の裂け目から、淡い光が滴のように落ちる。
それは水でも光でもなく、境界の震えだった。
足元の影が遅れて揺れ、時間の歪みを知る。
群れの中心には、触れられぬ密度が沈んでいる。
硝子越しに感じる圧は、呼吸よりも深い。
私はその重さを抱え、さらに歩を進める。
海底星霊の群舞は、沈黙を糸のように編む。
光の軌跡は皮膚の内側でだけ輪郭を持つ。
歩みはいつしか、観測ではなく侵入へ変わる。
硝子の回廊は、微細なひびで記憶を保存する。
そこに触れると、過去の冷えが指に戻る。
私はその反復の中で、方向を失わずにいる。
群舞の光は、海面の外側にも漏れ出していた。
湿度が高まるほど、影は濃度を失っていく。
私は薄くなる境界を踏み越えて進む。
足裏に伝わる圧は、海底の呼吸と一致する。
硝子の奥で揺れる星霊は、形を持たない声。
その声なき響きに、身体がわずかに応答する。
群れの流れは、時間を逆撫でするように進む。
私はその流速に逆らわず、ただ歩幅を合わせる。
冷えと光が交互に触れ、感覚が研ぎ澄まされる。
回廊の奥で、硝子は呼吸するように曇る。
曇りの向こうに、群舞の残像が折り重なる。
私はその重なりに指を滑らせる。
海底の星霊は、ホタルイカの群れに宿り続ける。
その宿りは触覚としてのみ知覚される。
歩みは静かに、深さへと沈んでいく。
硝子の床は、微かな振動で道を示す。
私はその振動を足裏で読み取り続ける。
周囲の光は、密度を増して静止する。
群舞の終端は、始まりと同じ無音にある。
その無音は、皮膚の内側でだけ響く。
私はそこに立ち、呼吸の境界を探る。
回廊の裂け目は、遠い海面へと通じていた。
光の粒は最後に、温度だけを残して消える。
私はその温度差に、旅の終端を感じる。
海底星霊の群舞は、記憶の層へ沈殿する。
硝子の魂は微かに震え、形を保たない。
私はそれを見送り、歩みを止めない。
泡沫の海は再び静まり、影だけが残響する。
足元の圧は薄れ、境界はひとつに戻る。
私はその消失の中を、最後まで歩き続ける。
海底星霊の群舞を越えた先で、私はまだ歩行という感覚の名残を足裏に感じていた。
硝子の魂が残した冷えは、骨の奥で静かに沈殿し続けている。
振り返るという動作さえ、すでに回廊の圧に溶けていた。
群れの光は消えたのではなく、密度を変えて海面の外側へ退いていた。
湿度の重さだけが記憶のように残り、空間は再び単純な深さへ戻っていく。
私はその単純さの中で、境界が消える音なき気配を聞いていた。
歩みの終端に立っても、旅そのものは身体の内部で継続している。
影はもはや外側に存在せず、呼吸の間にだけ揺れていた。
私は消え残る温度を最後の地図として、再び無名の海へと向かっていた。