泡沫紀行   作:みどりのかけら

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泡沫の海縁へ踏み入れる前、私はまだ影の薄さを名前としてしか知らなかった。
硝子の魂が宿るという噂は、湿った風の層に溶けては戻り、確かな輪郭を持たないまま足元へ沈んでいた。
歩き出す前の静けさだけが、深さの方向を示していた。


春の海はまだ眠りの途中で、ホタルイカの光は遠い胎動のように海面下で脈打っていた。
私はその脈を直接見るのではなく、皮膚に触れる圧として受け取り、足裏に沈む不確かな方向へ従っていた。
歩くという行為はすでに意思ではなく、湿度に押し出される反射へ変わっていた。


硝子回廊へ続く裂け目は、海と海でないものの境界にだけ現れる。
そこに立つと温度がわずかに遅れて追いつき、身体の輪郭が一瞬だけ薄くなる。
私はその薄さを恐れではなく、旅の入口として受け入れていた。



1559 海底星霊の群舞回廊

泡沫の海縁を歩くたび、足裏に冷たい圧が沈む。

影を宿す硝子の気配が、遠い層で揺れていた。

私はその層へ向けて、言葉なき旅を続ける。

 

 

春の暗い海面が、微光の群れを呼吸のように吐く。

光は粒となり、足元の影を薄く溶かしていく。

歩くたびに湿度が肌へ絡み、境界がほどける。

 

 

海底へ落ちる回廊は、音ではなく圧で形を持つ。

硝子の壁面に触れると、冷えが骨へ移ろう。

そこに残る気配は、遠い群舞の余韻だった。

 

 

光の粒は螺旋を描き、視界の奥で群れを成す。

私はその流れに沿い、足を沈める深さを測る。

湿った風圧が背中を押し、進行だけを許す。

 

 

硝子回廊の内側は、温度差だけで時間を示す。

触れた指先に残る冷えが、記憶のように滲む。

遠くで海鳴りにも似た残響が、層を揺らす。

 

 

群舞する星霊は、ホタルイカの影を借りて漂う。

その動きは視線ではなく、皮膚で読むしかない。

私は立ち止まり、圧の流れに身を委ねる。

 

 

回廊の裂け目から、淡い光が滴のように落ちる。

それは水でも光でもなく、境界の震えだった。

足元の影が遅れて揺れ、時間の歪みを知る。

 

 

群れの中心には、触れられぬ密度が沈んでいる。

硝子越しに感じる圧は、呼吸よりも深い。

私はその重さを抱え、さらに歩を進める。

 

 

海底星霊の群舞は、沈黙を糸のように編む。

光の軌跡は皮膚の内側でだけ輪郭を持つ。

歩みはいつしか、観測ではなく侵入へ変わる。

 

 

硝子の回廊は、微細なひびで記憶を保存する。

そこに触れると、過去の冷えが指に戻る。

私はその反復の中で、方向を失わずにいる。

 

 

群舞の光は、海面の外側にも漏れ出していた。

湿度が高まるほど、影は濃度を失っていく。

私は薄くなる境界を踏み越えて進む。

 

 

足裏に伝わる圧は、海底の呼吸と一致する。

硝子の奥で揺れる星霊は、形を持たない声。

その声なき響きに、身体がわずかに応答する。

 

 

群れの流れは、時間を逆撫でするように進む。

私はその流速に逆らわず、ただ歩幅を合わせる。

冷えと光が交互に触れ、感覚が研ぎ澄まされる。

 

 

回廊の奥で、硝子は呼吸するように曇る。

曇りの向こうに、群舞の残像が折り重なる。

私はその重なりに指を滑らせる。

 

 

海底の星霊は、ホタルイカの群れに宿り続ける。

その宿りは触覚としてのみ知覚される。

歩みは静かに、深さへと沈んでいく。

 

 

硝子の床は、微かな振動で道を示す。

私はその振動を足裏で読み取り続ける。

周囲の光は、密度を増して静止する。

 

 

群舞の終端は、始まりと同じ無音にある。

その無音は、皮膚の内側でだけ響く。

私はそこに立ち、呼吸の境界を探る。

 

 

回廊の裂け目は、遠い海面へと通じていた。

光の粒は最後に、温度だけを残して消える。

私はその温度差に、旅の終端を感じる。

 

 

海底星霊の群舞は、記憶の層へ沈殿する。

硝子の魂は微かに震え、形を保たない。

私はそれを見送り、歩みを止めない。

 

 

泡沫の海は再び静まり、影だけが残響する。

足元の圧は薄れ、境界はひとつに戻る。

私はその消失の中を、最後まで歩き続ける。

 




海底星霊の群舞を越えた先で、私はまだ歩行という感覚の名残を足裏に感じていた。
硝子の魂が残した冷えは、骨の奥で静かに沈殿し続けている。
振り返るという動作さえ、すでに回廊の圧に溶けていた。


群れの光は消えたのではなく、密度を変えて海面の外側へ退いていた。
湿度の重さだけが記憶のように残り、空間は再び単純な深さへ戻っていく。
私はその単純さの中で、境界が消える音なき気配を聞いていた。


歩みの終端に立っても、旅そのものは身体の内部で継続している。
影はもはや外側に存在せず、呼吸の間にだけ揺れていた。
私は消え残る温度を最後の地図として、再び無名の海へと向かっていた。
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