泡沫紀行   作:みどりのかけら

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森の奥へと踏み入るとき、足元の感触が少しずつ変わっていく。
乾いた土はやがて湿りを帯び、石は苔に覆われ、光は葉の隙間からこぼれるものに変わっていく。

その移ろいの先に、誰にも語られてこなかった静かな記憶がある。
風が運ぶもの、土が包むもの、水が忘れていないもの。

音のない時間のなかで、ふと立ち止まったときにだけ、耳を澄ませる者にだけ、そっと届く気配。

この道も、そんな場所に続いていた。


0156 古の泉が語る森の記憶

苔むした石のうねりをなぞるように、緩やかな坂が深く息づく緑の奥へと導いていく。

陽が傾くにはまだ早い時刻、だが梢の合間をすり抜けてくる光は、すでに夕べの気配を孕んでいる。

ひとすじの風が、葉裏を撫で、名も知らぬ小さな虫の翅音をかすかに揺らした。

 

足裏に伝わるのは、湿りを含んだ土のやわらかさ。

踏むたびに、何かが沈黙を破って囁くようだ。

深く眠っていたものの夢の続きを、知らぬ者が踏み荒らすことを赦すかのような、淡い許しの手触り。

 

傾斜の先には、朽ちた木の橋がひとつ。

両岸の岩に凭れるように、今にも崩れそうなその細い渡りに足をかけると、水音が胸の奥を打った。

冷たく透き通るせせらぎが、光の粒を抱いて揺れている。

水底には、小石のひとつひとつがくっきりと浮かび、苔の生え際にわずかな流れが影を作る。

 

橋の中央で、立ち止まる。

あたりに人の声はなく、ただ水の音と、遠くで山鳴りのように響く鳥の囀りが、時のゆるやかな流れを縫っていく。

 

そのとき、風が止んだ。

空気の層がひとつ、厚みを増すようにして、森が静まりかえる。

世界の呼吸が一瞬止まったような、張りつめた沈黙。

 

ひとつ、ふたつ、葉が音もなく舞い落ちる。

初夏の深みにしては、奇妙なほど冷たい空気が、首筋をなぞる。

振り返ると、道はすでに霞の向こうに溶けていた。

 

橋を渡りきった先、樹々の隙間から差し込む光の具合が微かに変わっている。

緑の濃さに濁りはなく、ただ静かに深く、魂を沈めていくような色合いに満ちている。

 

足元に広がる地面が、次第に苔の絨毯へと変わっていく。

ふわりと沈む感触は、肌の内側に染みわたる。どこか懐かしい、名を持たぬ安らぎが、胸の奥にひとしずく落ちる。

 

ひらひらと、白い羽のようなものが視界の端に舞った。

振り向くと、そこには泉があった。

 

何の前触れもなく、まるでもともとそこに在ったものが、ただひととき霧に隠れていたかのように。

 

水面は鏡のように静まり返り、周囲の梢や空が逆さまに沈んでいる。

手を伸ばせば触れられそうなほど近くに、けれど実際にはどれほどの深さがあるのか分からない、そんな底知れぬ気配がある。

 

耳を澄ませると、水の底からかすかな音が響いていた。

音とも言えぬほど淡く、だが確かに、なにかの記憶が流れ込んでくるような、優しいゆらぎ。

 

歩み寄ると、泉の縁には蔦が絡まり、その葉は朝露のような雫を宿していた。

滴る水が、ぽとりと音を立てるたび、時間が一粒ずつ溶けていくような錯覚に包まれる。

 

そっと腰をおろす。

苔の感触が衣の裾を濡らし、背にひやりとした岩肌が触れた。

目を閉じれば、遠い昔の誰かの気配が風とともに過ぎていくのを感じる。

 

言葉にならぬ物語が、泉の底から湧き上がってくる。

聞こうとせずとも、肌の奥でそれは響き、身体の輪郭すらも薄れていく。

 

眠れるものたちの息遣いが、そこにあった。

 

水音の調べは絶え間なく、だが単調ではなかった。

耳を澄ますほどに、その中には無数の声が混じっていた。

湧き出る泉の奥底から、遥か昔に流された涙のように、そっと、淡く。

 

目を閉じたまま、指先で苔の感触を確かめる。

冷たくもなく、温かくもなく、ただ生きている。

湿り気を帯びた緑は、微細な葉の一枚一枚にまで命を宿し、静かな光を内に抱えているようだった。

 

頬に風が触れる。

今度の風は、どこか懐かしさを含んでいた。

遠く離れた日々の中で、確かに一度だけ感じたことのある、あの匂い。

藍のような空気の層が広がって、深い森の奥に埋もれていた記憶を、やわらかく掘り起こしていく。

 

視界にふと、ひとひらの花が映る。

ひっそりと、泉の縁に咲いている。

細くて薄い、白磁のような花びら。

その中心には、ほのかに淡い青が差していた。

触れてはいけない気がして、ただ見つめる。

 

長く時を経た石のように、身体の動きが止まる。

呼吸が、水面の静けさに溶け込んでいく。

そのまま、この地の一部になれるのではないかと思わせるほどに、心が沈む。

 

泉の向こう、木々の合間にひとすじの光が差していた。

そこだけ、時が柔らかくほころんでいる。

光は水面をなぞり、反射したきらめきが苔の間を踊る。

 

音もなく、泉の底から泡がひとつ上がる。

やがてもうひとつ。

そのたびに、水は淡い波紋を描き、周囲の景色を少しずつ揺らしていく。

 

気づけば、胸の奥にあった固いものがほどけている。

言葉にはならないまま、ただ、ほどけている。

 

立ち上がる。

苔が名残惜しげに衣を引く。

けれど歩みは、泉から離れることを選ぶ。

 

振り返らずに、森の奥へと進む。

光と影が複雑に編み込まれた小道は、ただひたすらに静かで、歩を進めるたび、背後の音が遠のいていく。

 

それでも、心のどこかで確かに知っていた。

泉の水音は、もう身体の奥に染み込んでいて、もはや離れ得ぬものとして、ひそやかに生き続けるのだと。

 

遠くで、風がまた葉を揺らす。

その音が、まるで見えざる誰かの詩のように響いた。

 

歩き続ける足元に、また新たな蔦が絡みはじめる。

名もなき葉が道を覆い、柔らかな命が、次の記憶へといざなう。

 

静かな森はまだ続いていた。

眠れる星々が語りかけてくる声を、遠くに聞きながら。




振り返れば、たしかにそこにあったはずの泉は、霧のなかへと溶けていった。
音もなく、名もなく、ただ静かに、すべてを包みながら。

その水音はいまも、どこか遠くで響いている。
朝露のように忘れられ、けれど確かに染み残るものとして、胸の奥に。

そしてまた歩いていく。
何も語らずに、ただ風の行くほうへ。
深い緑の向こうには、まだ誰も知らない記憶が眠っている。
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