泡沫紀行   作:みどりのかけら

1560 / 1573
海霧は遠くの水平を消し、白い壁として私の前に立ち上がっていた。
その境界には湿った重さがあり、触れぬままに肌へ沈み込んでくる。
歩みを始める前から、地面はすでに遠い別の層へ移り変わっていた。


足元の砂は冷え切った記憶の粒子のように沈黙している。
そこに立つだけで体温の輪郭がわずかに剥がれ落ちる。
霧の内部では時間が遅く折り曲げられている気配がある。


硝子の魂という名だけが、見えない奥から薄く響いている。
それは音ではなく圧の揺らぎとして身体の内側に触れる。
私はまだ歩き出していないのに、すでに旅の中にある。



1560 海霧白糸の結界

海霧が白糸となり、足元の境界を曖昧にしていた。

冬の湿度は皮膚に膜を貼り付けまとわりつく。

私はその膜の重さを確かめるように歩を進める。

 

 

岬の縁は硝子で透明で、割れない沈黙を抱えている。

風は冷え切った刃ではなく、柔らかな圧で頬を押す。

足裏に伝わる砂粒の冷たさが記憶の奥を曇らせる。

 

 

海霧が白糸となり、足元の境界を曖昧にしていた。

それは触れれば崩れそうで、しかし決して途切れない。

喉の奥へ塩味が滲み込む。

 

 

影は地面ではなく霧に沈み込み形を持たない。

私の歩みはその影を撹拌するだけで意味を残さない。

それでも進行は確かに時間の方向を示している。

 

 

海霧の結界は遠くで輪郭を揺らしながら閉じている。

触れれば溶ける壁のように、存在と非在を隔てる。

指先に冷えた空気が絡みつき、抵抗を示す。

 

 

岩肌は濡れた硝子片のように光を反射する。

足を置くたびに振動が骨へと伝わる。

その振動は記憶の底に別の旅路を呼び起こす。

 

 

とろろ昆布の繊維は視界の奥で結び目を作り続ける。

その結び目は解かれることなく増殖する。

私はその中を通過するだけの存在にすぎない。

 

 

冬の海は静止ではなく遅い呼吸として広がっている。

その呼吸に合わせるように身体の熱が奪われていく。

それでも歩行は止まらず、内側に火を残す。

 

 

海霧の白糸は時折指に触れ、冷気として崩れる。

触れた瞬間だけ世界の輪郭がわずかに歪む。

その歪みの戻りは観測できない。

 

 

岬の先端には言葉の残響温度差が沈んでいる。

それは誰のものでもなく、ただ環境で存在する。

私はその温度差に足を浸しながら進む。

 

 

とろろ昆布の層は海面の上にも下にも同時に存在する。

その矛盾は自然であり、違和は溶解している。

視界はその中で層状に折り畳まれていく。

 

 

霧の内部では距離が重さへと変換されている。

一歩ごとに身体は負荷を受け取る。

その負荷が歩幅をわずかに短く調整する。

 

 

硝子の魂という呼び名だけが遠くで微かに鳴っている。

それは形を持たないまま結界の中心を示す。

私はその音のない振動を頼りに方向を保つ。

 

 

海霧は白い糸ではなく細い圧力として降り積もる。

肩に触れるたびに時間の密度が変化する。

その変化は身体だけに残る。

 

 

とろろ昆布の層は足元で静かに絡まり続ける。

それは海でも陸でもない中間の感触。

私はその曖昧さに沈み込みながら進む。

 

 

霧の奥に空洞があり、そこだけ風が異なる。

その差異は視覚ではなく皮膚でのみ理解される。

腕は無意識にその方向へ伸びかける。

 

 

岬の曲線は硝子の縁のように鋭くも脆い。

一歩誤れば世界ごと割れてしまう錯覚がある。

しかし割れる音はどこにも存在しない。

 

 

海霧の結界は背後でゆっくり閉じつつある。

その閉鎖は終端ではなく再配置のように見える。

私はその変化を背中で受け止め続ける。

 

 

とろろ昆布の繊維は呼吸の内側にまで入り込む。

それは身体と環境の境界を曖昧にする。

私は自分の輪郭を確かめることをやめていく。

 

 

冬の海霧はすべてを白い結び目へと還元していく。

その中で歩みが確かな抵抗で残る。

私は影を宿す硝子の魂の方へ静かに進み続ける。

 




海霧の白糸は背後で静かに解け、結界の縁は遠ざかっていた。
振り返るたびに輪郭は曖昧になり、境界の存在だけが残る。
身体にはまだ湿度の重さが貼り付いたまま離れない。


歩いてきたはずの地面は、すでに別の密度へ沈んでいる。
そこに残るのは足跡ではなく、温度差のわずかな歪みだけである。
呼吸の奥にとろろ昆布のような絡まりが静かに残響する。


硝子の魂の気配は遠くで薄まり、透明な圧として消えていく。
その消失は終わりではなく、形を変えた継続のように感じられる。
私はなお歩行の感覚だけを頼りに、見えない先へ進み続ける。
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