泡沫紀行   作:みどりのかけら

1561 / 1573
海霧を含んだ白い風が、長い堤路の石肌を湿らせていた。
私は薄く濡れた靴底を確かめながら、灰色の空の下を歩いていた。
遠方には硝子質の輪郭だけを浮かべる巨大な影が滲んでいた。


道脇へ積もる薄塩の粒が、衣の裾へ細く絡みついた。
足首へまとわる冷えは静かなのに、胸奥では低い振動が途切れず揺れていた。
誰かの残した気配だけが、潮風に混じって流れていた。


湾曲した外壁へ近づくにつれ、空気の密度がわずかに変わった。
私は掌を冷えた硝子面へ触れ、その奥を巡る見えない律動を感じ取った。
海老江総合文化施設という名だけが、淡い残響として霧の中に浮かんでいた。



1561 響律を編む未来の器

潮を含んだ灰硝子の回廊が、薄い霧の奥で脈を打っていた。

私は濡れた石畳を踏み、爪先へ滲む冷えを確かめながら歩いた。

海老江総合文化施設と呼ばれていた余韻だけが、壁面の鈍い反射に残っていた。

 

 

硝子柱の内部には淡い影が沈み、触れると水脈のような震えが返った。

掌に移った低い振動が、骨の奥で細く擦れ合った。

乾き切らない空気が袖を重く垂らしていた。

 

 

中庭へ続く湾曲路には、白塩を含む風が滞っていた。

私は肩へ押し寄せる圧を受け、背骨に沿う寒さをゆっくり飲み込んだ。

足元では砕けた硝片が柔らかく軋み続けた。

 

 

天蓋の裂け目から青白い光が落ち、床面に波紋のような影を編んでいた。

その揺れに合わせるように、遠い残響が壁内を巡っていた。

声ではなく、濡れ布を擦る気配だけが耳裏へ滲んだ。

 

 

細長い通路の片側には、透明な器が幾層にも吊られていた。

器へ近づくたび、皮膚の表面に微かな熱が移った。

誰かの指先が置き忘れた温度だけが、硝子の縁に留まっていた。

 

 

私は濡れた欄干へ腕を預けた。

冷えた感触が肘から胸へゆっくり沈み、呼吸の深さを変えていった。

遠くで淡銀の幕が風圧に撓んでいた。

 

 

施設の奥では、床下に埋まる水路が低く鳴っていた。

その律動に足裏が引かれ、私は歩幅をわずかに崩した。

湿気を含む暗がりが膝の高さまで満ちていた。

 

 

壁面へ刻まれた薄線は、触れるたび別の角度へ光を返した。

指腹へ集まる冷気が、乾いた砂を掴む感触に似ていた。

未来という名だけが、形を持たず硝子内を漂っていた。

 

 

吹き抜けの広間には、編み込まれた透明布が垂れていた。

布端が揺れるたび、細い残響が空気の層を震わせた。

私はその下を潜り、額に落ちる冷露を受け止めた。

 

 

湾状の窓辺では、青灰の海霧がゆっくり滲んでいた。

硝子越しの光は柔らかいのに、頬へ触れる空気だけが鋭かった。

喉奥へ沈む塩気が、古い記録の紙片を思わせた。

 

 

通路脇には黒い水盤が並び、表面へ細かな波が生まれていた。

波紋の揺れに合わせ、足首へ絡む冷気が形を変えた。

残された誰かの逡巡が、水面の深さに沈んでいるようだった。

 

 

私は長い階を下り、地下へ近い薄闇へ入った。

石壁から滲む湿り気が肩へ重く貼り付き、呼吸を遅くした。

奥から届く微光だけが、器の輪郭をぼんやり浮かべていた。

 

 

そこには巨大な硝子槽が静かに並んでいた。

内部を満たす淡青の液が脈打つたび、床面が低く震えた。

私は掌を押し当て、冷えの奥に潜む微熱を受け取った。

 

 

液中には細い光線が絡み合い、絶えず形を編み替えていた。

その変化へ視線を沈めるほど、瞼の裏に柔らかな圧が残った。

未来は進むものではなく、滲み続ける器なのだと皮膚が理解した。

 




外庭を抜ける頃には、霧が施設全体を柔らかく覆い始めていた。
硝子壁へ残る淡青の反射が、波のように揺れながら遠ざかっていった。
私の肩には湿った風圧だけが静かに残っていた。


歩き続ける足裏では、細かな硝子粉が乾いた音を返していた。
その感触は消えかけた記録のように脆く、それでいて妙に温かかった。
背後から届く響律は、もう音ではなく温度差に変わっていた。


空を覆う灰雲の裂け目から、細い白光が海霧へ落ちていた。
私は冷えた指先を握り直し、滲み続ける潮の気配の中をさらに歩いた。
未来を編む器たちは、見えない場所でなお静かに脈打っていた。
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