足裏には湿った硝子粉のような感触があり、進むたびに微細な冷えが跳ねた。
空はまだ夜とも昼ともつかず、時間の縁だけが柔らかく剥がれていた。
遠くで層のように重なる影が揺れ、見えない祭の始まりだけが予兆として漂っていた。
風は谷を通るたびに形を変え、衣の内側へ細い圧を差し込んできた。
私はその圧に押されるように、既に決められていた歩行へ足を預けていった。
地面の奥では何かが眠りながら反転し、薄い震えが間欠的に伝わってきた。
その震えは耳ではなく骨へ届き、旅の方向を静かに定めていた。
名のない宵が、硝子のような気配を帯びて広がっていた。
薄い霧を踏み分けて峡路へ入ると、足裏に硝子片のような冷えが滲んだ。
暮れ残る赤銅の雲が、水脈の浅い空へゆっくり沈んでいた。
谷から吹き上がる風には乾いた樹皮の匂いが混じり、袖の内側を細く擦った。
私は肩に積もる秋湿りを払いながら、灯の気配を追って歩いた。
斜面の石畳には丸い轍だけが残り、誰かの重みはすでに失われていた。
その窪みに溜まる夜気へ触れるたび、指先が淡く痺れた。
やがて水路沿いに硝子布を垂らした門影が現れ、冷光が脛へ絡みついた。
揺れる透明片の奥で、見えない祭列の余韻だけが沈んでいた。
空には幾つもの浮遊灯が滞り、落葉のように低く漂っていた。
それらは風へ逆らわず、静かな意志だけで宵を滑っていた。
路面へ掌を置くと、深部から微かな震えが返り、骨の内側を撫でた。
遠くで何か巨大なものが曲がる気配だけが、闇の層を押していた。
白藍の幕布は家並みに沿って垂れ、湿りを含んだ裾が頬を掠めた。
布越しには灯油にも似た温度差が漂い、過ぎた呼吸を想わせた。
坂を上がるほど空気は薄く硬まり、胸骨の裏へ冷圧が沈み込んだ。
私は息を深く落とし、肺へ入り込む木灰の香をゆっくり受け止めた。
尾根近くの広場には円い影が幾重にも重なり、地面だけが柔らかかった。
踏み込むたび土が温み、直前まで誰かが滞在していたように緩んだ。
中央には硝子骨で編まれた巨大な殻が浮き、淡金の粒を零していた。
その輪郭は風圧に合わせて脈打ち、夜空へ薄い波紋を拡げていた。
私は殻の真下へ入り込み、額へ落ちる冷滴を受けながら立ち尽くした。
滴は肌を滑る途中で微かに熱を持ち、遠雷のような余韻を残した。
祭の痕跡は音ではなく、石段の摩耗や煤けた柱に宿っていた。
暗がりへ触れるたび、古い手袋の内側へ指を差し込む感触が続いた。
浮遊灯の群れは時折ひとつに寄り集まり、巨大な魚影の形へ変わった。
その下を通ると髪が逆立ち、背筋へ淡い電気雨が流れ込んだ。
広場の端では乾いた葉群が渦を描き、見えない裾を引いていた。
私は膝まで沈む落葉を踏み分け、土中の湿熱へ足を埋めた。
遠い斜路から白煙が昇り、香木を焦がした匂いだけが漂着した。
煙は喉へ薄膜のように貼り付き、飲み込むたび胸を重くした。
やがて空の硝子殻がゆっくり傾き、内部の灯粒を川面へ落とし始めた。
水は砕けた星屑を抱え込み、暗青の肌を細かく震わせた。
私は岸辺へ膝をつき、冷えた流れへ手首まで沈めた。
水底には柔らかな砂ではなく、磨耗した透明骨が幾重にも眠っていた。
風向きが変わると祭列の残響も薄れ、広場には夜露だけが降り始めた。
濡れた外套の重みが肩へ沈み、旅の輪郭を静かに狭めていった。
谷を離れる頃には浮遊灯も消え、空には硝子色の雲だけが残っていた。
私は冷え切った掌を胸へ当て、まだ脈打つ宵祭の温度を抱えたまま歩き続けた。
灯の群れはすでに崩れ、夜は均された水面のように静まり返っていた。
足元の湿りは乾きかけ、残響だけが皮膚の奥に薄く沈んでいた。
振り返っても輪郭は曖昧で、祭のあった場所だけが温度を失わずに残っていた。
風は低く水平に流れ、肩に触れるたび過去の重みを削ぎ落としていった。
硝子の殻の気配は遠ざかり、代わりに淡い空白が広がっていた。
その空白は軽さではなく、深く沈む密度として身体に触れていた。
歩みは止まらないまま、記憶だけが足裏の砂のように細かく崩れていった。
それでも掌には微かな冷光が残り、見えない宵の続きがまだ滲んでいた。
その残光を抱えたまま、再び霧の層へと歩みを溶かしていった。