泡沫紀行   作:みどりのかけら

1565 / 1573
霧の薄膜が地面の輪郭を曖昧にし、歩みは最初から宙に沈んでいた。
足裏には湿った硝子粉のような感触があり、進むたびに微細な冷えが跳ねた。
空はまだ夜とも昼ともつかず、時間の縁だけが柔らかく剥がれていた。


遠くで層のように重なる影が揺れ、見えない祭の始まりだけが予兆として漂っていた。
風は谷を通るたびに形を変え、衣の内側へ細い圧を差し込んできた。
私はその圧に押されるように、既に決められていた歩行へ足を預けていった。


地面の奥では何かが眠りながら反転し、薄い震えが間欠的に伝わってきた。
その震えは耳ではなく骨へ届き、旅の方向を静かに定めていた。
名のない宵が、硝子のような気配を帯びて広がっていた。



1565 浮遊機巧の宵祭

薄い霧を踏み分けて峡路へ入ると、足裏に硝子片のような冷えが滲んだ。

暮れ残る赤銅の雲が、水脈の浅い空へゆっくり沈んでいた。

 

 

谷から吹き上がる風には乾いた樹皮の匂いが混じり、袖の内側を細く擦った。

私は肩に積もる秋湿りを払いながら、灯の気配を追って歩いた。

 

 

斜面の石畳には丸い轍だけが残り、誰かの重みはすでに失われていた。

その窪みに溜まる夜気へ触れるたび、指先が淡く痺れた。

 

 

やがて水路沿いに硝子布を垂らした門影が現れ、冷光が脛へ絡みついた。

揺れる透明片の奥で、見えない祭列の余韻だけが沈んでいた。

 

 

空には幾つもの浮遊灯が滞り、落葉のように低く漂っていた。

それらは風へ逆らわず、静かな意志だけで宵を滑っていた。

 

 

路面へ掌を置くと、深部から微かな震えが返り、骨の内側を撫でた。

遠くで何か巨大なものが曲がる気配だけが、闇の層を押していた。

 

 

白藍の幕布は家並みに沿って垂れ、湿りを含んだ裾が頬を掠めた。

布越しには灯油にも似た温度差が漂い、過ぎた呼吸を想わせた。

 

 

坂を上がるほど空気は薄く硬まり、胸骨の裏へ冷圧が沈み込んだ。

私は息を深く落とし、肺へ入り込む木灰の香をゆっくり受け止めた。

 

 

尾根近くの広場には円い影が幾重にも重なり、地面だけが柔らかかった。

踏み込むたび土が温み、直前まで誰かが滞在していたように緩んだ。

 

 

中央には硝子骨で編まれた巨大な殻が浮き、淡金の粒を零していた。

その輪郭は風圧に合わせて脈打ち、夜空へ薄い波紋を拡げていた。

 

 

私は殻の真下へ入り込み、額へ落ちる冷滴を受けながら立ち尽くした。

滴は肌を滑る途中で微かに熱を持ち、遠雷のような余韻を残した。

 

 

祭の痕跡は音ではなく、石段の摩耗や煤けた柱に宿っていた。

暗がりへ触れるたび、古い手袋の内側へ指を差し込む感触が続いた。

 

 

浮遊灯の群れは時折ひとつに寄り集まり、巨大な魚影の形へ変わった。

その下を通ると髪が逆立ち、背筋へ淡い電気雨が流れ込んだ。

 

 

広場の端では乾いた葉群が渦を描き、見えない裾を引いていた。

私は膝まで沈む落葉を踏み分け、土中の湿熱へ足を埋めた。

 

 

遠い斜路から白煙が昇り、香木を焦がした匂いだけが漂着した。

煙は喉へ薄膜のように貼り付き、飲み込むたび胸を重くした。

 

 

やがて空の硝子殻がゆっくり傾き、内部の灯粒を川面へ落とし始めた。

水は砕けた星屑を抱え込み、暗青の肌を細かく震わせた。

 

 

私は岸辺へ膝をつき、冷えた流れへ手首まで沈めた。

水底には柔らかな砂ではなく、磨耗した透明骨が幾重にも眠っていた。

 

 

風向きが変わると祭列の残響も薄れ、広場には夜露だけが降り始めた。

濡れた外套の重みが肩へ沈み、旅の輪郭を静かに狭めていった。

 

 

谷を離れる頃には浮遊灯も消え、空には硝子色の雲だけが残っていた。

私は冷え切った掌を胸へ当て、まだ脈打つ宵祭の温度を抱えたまま歩き続けた。

 




灯の群れはすでに崩れ、夜は均された水面のように静まり返っていた。
足元の湿りは乾きかけ、残響だけが皮膚の奥に薄く沈んでいた。
振り返っても輪郭は曖昧で、祭のあった場所だけが温度を失わずに残っていた。


風は低く水平に流れ、肩に触れるたび過去の重みを削ぎ落としていった。
硝子の殻の気配は遠ざかり、代わりに淡い空白が広がっていた。
その空白は軽さではなく、深く沈む密度として身体に触れていた。


歩みは止まらないまま、記憶だけが足裏の砂のように細かく崩れていった。
それでも掌には微かな冷光が残り、見えない宵の続きがまだ滲んでいた。
その残光を抱えたまま、再び霧の層へと歩みを溶かしていった。
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