泡沫紀行   作:みどりのかけら

1566 / 1573
雪を含んだ気配が、山の縁に薄い膜を張っていた。
その膜に指先を触れ、現実と非現実の境界がわずかに震えるのを感じる。
紙縒りのように絡む尾根は遠景でうねり、呼吸するように白さを増減させていた。


風が谷間から上昇し、身体の内側を空洞へと変えていく。
足元の雪は踏まれるたびに微細な記憶を吐き出し、その断片が靴底にまとわりつく。
その記憶は音ではなく湿度の揺らぎとして残り、喉の奥に重さを落とす。
山肌には誰のものでもない温度差が沈み、触れるたびに輪郭を変えていた。


歩幅を小さくし、地形のねじれに身体を合わせる。
視界の端で、紙縒りの道が迷宮へとほどけ、行き先の概念を曖昧にする。
その始まりには名付けられていない沈黙があり、足裏の感覚だけがそれを確かめていた。



1566 雪嶺の紙縒り迷宮

雪を含んだ風が、私の皮膚を薄く削るように通り過ぎた。

名もない山脈の縁に、紙縒りのような白い道が絡みついている。

その裂け目へ、靴裏の感覚だけを頼りに踏み入れた。

 

足元の雪は沈黙の重さを持ち、踏むたびに遠い記憶のように軋む。

呼吸は冷気にほどけ、喉の奥で細い霧となって滞留する。

 

 

山肌は紙縒りを束ねた迷宮のように折れ曲がり、視界を幾度も反転させる。

指先が岩に触れるたび、冷えた脈動が骨へと移る。

そこに人の気配の残響だけが、薄い温度差として滲んでいた。

 

 

風は谷底から這い上がり、私の背を押すのではなく内側を空洞にする。

その空洞に、雪の粒が微かな音もなく積もっていく。

 

 

紙縒りの道は時折ほつれ、足場の概念を失わせる裂け目となる。

そこに立ち止まり、重力の方向を手の感覚で確かめる。

指先に残る冷たさだけが、進行の証として残った。

 

 

山腹の影は層をなし、光を吸い込むように深く沈んでいる。

その影に触れると、衣服の内側まで湿度が侵食してくる。

 

 

遠くで雪崩れのような気配が起こり、空気の密度が一瞬だけ変質する。

しかし音は届かず、ただ圧だけが胸郭を押し広げた。

その圧の中で、歩幅を半分に縮めて進む。

 

 

紙縒りの束は地面から浮き上がり、道そのものが記憶の糸となっている。

その糸を辿るたび、時間の方向がわずかにねじれる。

 

 

雪面に残る痕跡はすぐに埋まり、存在の持続を拒むように平らになる。

その消去の速度に、皮膚の温度を合わせていく。

指先の感覚だけが、かろうじて輪郭を保っていた。

 

 

谷の奥から湿った風が上昇し、喉元に重い布を巻きつける。

その布は呼吸を奪うのではなく、呼吸の意味を曖昧にする。

 

 

紙縒りの迷宮は、歩くほどに構造を変え、出口の概念を希薄にする。

足裏の圧だけを頼りに、わずかな傾斜を読み取る。

その読み取りは、視界よりも確かな地図となる。

 

 

山肌の裂け目から、冷えた光が細い刃のように差し込む。

その刃は皮膚の表面で砕け、微細な痛覚の粒子へと変わる。

 

 

歩くたびに、雪の中へ沈む身体の比率を確かめている。

膝から下が失われる錯覚が、現実の輪郭を薄くする。

それでも重心は、静かに前方へと傾き続ける。

 

 

風の圧が弱まる瞬間、世界は逆に密度を増したように感じられる。

その密度は、触れられないまま肌の奥に蓄積する。

 

 

紙縒りの道は山頂へ向かうほど細くなり、呼吸の幅と同調する。

その細さに合わせて、思考の速度を落とす。

時間はそこで、静かに粘性を帯び始める。

 

 

雪面の下で、何かが折り重なり続ける音なき運動を感じる。

それは地形ではなく、記憶の堆積のように思えた。

 

 

最後の曲がり角で、紙縒りの束は途切れずに空へと消えている。

その消失点に立ち、足裏の冷えを深く受け止める。

境界はそこにありながら、確定を拒んでいた。

 

 

山の沈黙は厚く、私の輪郭をゆっくりと侵食していく、骨の内側へと染み込む。

それでも一歩を残し、消えかける道の続きへと身を預けた。

 




紙縒りの束が途切れた場所で、空は過剰な白さを持ち、視界の奥行きを奪っていた。
その白に触れ、歩いてきた重さの所在を探すが、それは既に雪の層へ溶け込んでいる。
境界は見えない圧として残り、呼吸のたびに胸郭へ静かに反響していた。


山は背後で静かに折れ、輪郭を失いながら記憶の底へ沈んでいく。
風は来たときと同じ無言で痕跡だけを均し、歩行の痕を何度も塗り替える。
足裏に残る感覚だけが進行の残響として残り、時間の向きがわずかに反転していた。


最後の一歩を確かめるように置き、境界の外側へと滲んでいく。
紙縒りの迷宮は記憶の内側へ沈み、形を失いながらも冷えた質感だけを残す。
それでも指先には見えない糸の感触が残り、歩行の続きだけが静かに延長されていた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。