私は名も持たぬ道へ足を置き、靴裏へ伝わる柔らかな圧だけを頼りに歩き始める。
風は花の香ではなく、遠い記憶の冷たさを運んでいた。
誰かが通り過ぎた気配は見えず、残された温度差だけが行く先を静かに指し示す。
空を漂う薄い光は、影だけを抱えた硝子片のように揺れていた。
その欠片へ触れられる場所が、この日の旅路の終わりに待っている予感だけが胸の奥へ静かに沈んでいった。
静かな泡の境を越えるたび、足裏に淡い熱が宿った。
春は名を持たぬ花の香をほどき、道は硝子の繊維のようにやわらかく沈む。
谷を満たす桜焔は炎ではなく、冷えた光だけを揺らしていた。
舞い落ちる欠片が肩へ触れるたび、布越しの重さだけが季節を知らせる。
緩やかな坂を踏みしめると、土の奥から透明な鼓動が返ってきた。
その律動は耳へ届かず、膝の内側へ静かに染み込んでゆく。
やがて影を祀る古い社が霧の膜から姿をほどいた。
柱は黒曜のように深く、それでいて朝露を抱えた花弁ほど脆く映る。
門を越えた瞬間、風圧が胸を押し返した。
拒まれる感覚ではなく、長く忘れていた輪郭へ触れられる静けさだった。
石畳には誰かの歩幅だけが残響となって重なっていた。
姿はどこにもなく、温度差だけが薄い気配を結び直している。
枝先から散る桜焔は地へ落ちず、影へ溶けてゆく。
その影は水面の硝子となり、私の足首を淡く映して揺れた。
私はしゃがみ込み、掌を透明な影へ添えた。
冷たさはなく、乾いた温もりだけが皮膚をゆっくり満たしてゆく。
硝子の底には小さな魂の粒が眠っていた。
光を返さず、影だけを抱え込む姿が春の匂いを静かに濃くする。
その粒へ指先が近づくほど、肩から余分な重みが落ちていった。
代わりに足裏へ細かな震えが積もり、立つことさえ祈りへ似てくる。
境内を渡る風は花を散らさず、私の袖だけを揺らした。
布の擦れる感触が、言葉にならない余韻を幾重にも折り重ねる。
遠い空では雲が薄い器となり、青さを少しずつ零していた。
その淡い滴は頬へ届かず、まぶたの裏だけを湿らせる。
社の奥には鏡にも泉にも似た硝子の面が眠っていた。
映るのは姿ではなく、歩いてきた道に残された影の厚みだけである。
私はその面へ額を寄せた。
ひやりとした感触の奥で、名も知らぬ縁が静かに脈を打ち始めた。
桜焔が一斉に舞い上がると、影は羽衣のようにほどけた。
魂の粒はその流れへ溶け、境内全体が淡い呼吸を帯びる。
去った存在の痕跡は石の温度となり、苔の湿りとなって残っていた。
私はその差異を踏み分けながら、足音を持たぬ道を選び続ける。
社を離れても肩には薄い硝子の重さが残った。
それは荷ではなく、影を宿した魂が歩幅へ寄り添う感触だった。
振り返ると社は春霞へ溶け、輪郭だけが桜焔と重なっていた。
私の掌には透明な冷えが残り、その静けさだけが次の道標として脈打ち続けた。
足元へ流れてきた薄い霧は、影を溶かすことなく静かに縁だけを磨いていった。
その湿りが脛を包むたび、硝子の魂はなお深く春の息吹を映し込み、私の歩幅へ淡い重みを重ねてくる。
やがて道端に積もる桜焔は風にも散らず、小さな灯の群れとなって大地の鼓動へ寄り添っていた。
私はその間を踏まぬよう足先の向きをわずかに変え、足裏へ返る柔らかな弾みだけを確かめながら境界の薄さを越えてゆく。
遠ざかる社の気配は霞の奥でひとつの影となり、なお名も持たぬ縁だけを静かに結び続けていた。
掌へ残る透明な冷えは旅の終わりではなく、次の春へ渡される硝子の欠片となって脈打ち、私はその微かな重さを抱いたまま泡沫の道を歩き続けた。
社を離れたあとも、掌には硝子へ触れた冷えが消えずに残っていた。
歩幅を重ねるたび、その静けさは影を宿す小さな灯となり、身体の奥で揺らぎ続ける。
桜焔はもう見えないはずなのに、風が吹くたび淡い光だけが肩をかすめた。
去った存在の余韻は道そのものへ溶け込み、私はその温度を踏み分けながら次の境界へ向かう。
泡沫の世界では、縁は結ばれるものではなく歩くたびに滲み出すものなのだろう。
私は振り返らず、それでも背中へ寄り添う影の気配だけを静かに抱え、終わりの先に続く新たな道へ足を運んだ。