泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足元に散る葉が季節の深まりを告げる頃、静かに歩を進める旅のなかで、ある湖に出会った。

空と地が溶け合い、音さえも眠るその場所では、時の流れまでもがゆるやかに形を変えてゆく。
言葉にし難い感情が、水面に触れた風のように、ふと胸の奥を通り過ぎていった。

この地を歩いた記憶を、静かな旋律のように綴った。


0157 蒼き魂を映す静謐の鏡

風はもう、実の重たさを忘れた梢を撫でていた。

葉裏をゆっくりと返し、色を変えながら落ちてゆく欠片たちの舞いは、まるで夢が土に還るさまのようだった。

 

ひとつの道が、錆びた光を帯びて続いていた。

陽の気配は高くも低くもなく、声なき音を辺りに滲ませていた。

薄く靄が立ち、空と地の輪郭がひとつに溶ける。

歩を進めるたび、音は土の奥へと沈んでいき、自らの存在もまた、どこかで静かに薄れてゆくのを感じる。

 

苔むした岩が、水の流れを抱えていた。

手を触れれば、冷たさの奥に長い時間の影が宿っていた。

誰にも名づけられずに流れ、誰にも語られぬまま澄みつづけるものが、この地にはまだ息づいている。

 

あるところで、風がふとやみ、葉の落ちる音すら止んだ。

そこには水面があった。

あまりにも静かで、ただ、青く、深く、すべてを映していた。

遠くで陽が雲を裂き、鏡のようなその水の上に、わずかに金の線を引いた。

けれども、その輝きすらも、時の深みへとすぐに吸い込まれてしまう。

 

水辺の傍らには、朽ちた倒木が横たわっていた。

すでに苔が生え、小さな茸が根元に密やかに咲いている。

腰をおろし、目を閉じると、まぶたの裏に透ける光と風の残像が、かすかな旋律のように浮かんでは消えた。

 

空を映す湖は、どこまでも揺れず、ただすべてを受け容れていた。

鳥の羽音ひとつも、波紋さえ起こすことなく吸い込み、その静謐の深さに、こちらの時間までも奪われていく。

風も言葉もなく、ただ息づくものの呼吸だけが、確かにここにある。

 

やがて足元に、ひとひらの紅葉が落ちた。

濡れた砂に張りつき、風に吹かれても動かない。

そのかたちは、誰かが一度、空を見上げた証のようだった。

木々の梢からは、いくつもの光が地に降りて、影を斑に落としている。

温もりと冷たさの間に佇むような、名もなき季節のはざま。

 

指先に触れる草の先端は、露を含んでいた。

口元に運べば、ほんのりと鉄の味がする。

それは、目に見えぬ命の気配が、まだこの地の奥に燃えている証だった。

 

時折、頭上を横切る鳥の影がある。

声はない。

ただ、影だけが水に揺れて、それすらもいつしか輪のようにほどけて消えていく。

 

歩きながら、思い出すことも忘れることもなく、ただ風景の中に染まってゆく。

肌に触れる空気の重み、足裏から伝う湿り気、耳の奥で軋むような静寂の呼び声。

どれもが確かで、けれど輪郭を持たず、夢と現のあわいを彷徨っているようだった。

 

岩陰には小さな流れがあり、そこには薄紅の花がひとつ咲いていた。

水際にあるその花弁は、風に揺れるたび、微かに鈴のような音を立てる。

近づいてみても、音は聞こえない。

けれども、確かに胸の奥でその音が鳴っていた。

 

花を摘むことはせず、その場を離れた。

何ひとつ持ち帰らず、何ひとつ残さずに歩くということが、この道をたどる理由のようにも思えた。

 

光はゆるやかに傾き、木々の影が湖面に沈み始めていた。

赤や橙に染まりゆくそのかたちが、まるで空が静かに落ちてくるようで、深く呼吸するだけで、胸の奥に薄い痛みのようなものが満ちていった。

 

風はまた歩を進めていた。

落葉を踏むたび、柔らかく湿った音が響き、足裏に伝う感触が、確かにこの地を歩いているという実感を残してくれる。

けれどその実感さえ、風景の中ではあまりにも小さく、儚い。

 

枝先にかろうじて残された葉の一枚が、光を受けてきらめいた。

陽は遠く、空の端で微かに朱を孕んでいる。

指を伸ばしても届かないその淡い輝きは、ただ見る者の記憶にだけ沈んでゆく。

 

水のそばには、白く乾いた石があった。

掌に収まるほどの小さなもの。それはまるで、この湖に棲む者の眠りの枕のようにも見えた。

耳を近づけてみれば、風と水の音が、遠い昔の夢のように混ざり合っていた。

 

ふと、空が深くなった。

水はさらに静かに、夜の青を吸い込みながら、深く沈んでいく。

鏡のようだったその湖が、いつしか底のない闇の瞳のように変わってゆく。

けれど、怖れはなかった。

むしろ、その静寂の奥にこそ、今までにないやすらぎがあった。

 

吐く息が、わずかに白くなる。

肩に落ちた冷気が、布越しに肌を刺した。

けれどそれすら、心地よかった。

時の流れが一歩ずつ身体に積もってゆくようで、歩くたびに、どこか遠くへ離れていくものがあると感じられた。

 

夜の入口は、何の合図もなく始まっていた。

木々の間に灯りはなく、ただ空の色だけが変わりゆく。

水辺に腰をおろせば、星が、ひとつ、またひとつと灯ってゆくのが見えた。

 

その星々が湖に降りる頃、風は息を潜め、世界はすっかり息をひそめていた。

すべての音が水に溶け、空と地の境はとけあっていた。

 

あまりに静かで、あまりに深く、言葉がひとつも浮かばない。

けれど、その無言のなかに、確かに響いてくるものがある。

水の奥から、空の高みから、風の肌から。

 

それは、かつて誰かがここで目を閉じた記憶かもしれないし、まだ誰にも見つけられていない物語のはじまりかもしれない。

 

何も語られずとも、確かにそこに存在し続けるもの。

それを受け取るためだけに、この道はあるように思えた。

 

今、湖の面には星が揺れている。

けれど、それは星ではないかもしれない。

水の底に眠る、魂のひとかけらかもしれない。

あるいは、かつて誰かが大切に抱いた、名もなき祈りの残光かもしれない。

 

しばらくのあいだ、何もせず、何も求めず、ただその景色の中に身を浸していた。

まるで、透明なもののなかに沈んでいくようだった。

すべてが軽く、やわらかく、心までもが静かに解けていく。

 

目を閉じれば、遠い星の声が聞こえる気がした。

音もなく、言葉もなく、ただ、永い眠りのように優しく。

 

この地に降りた魂のひとつとして、風の中に、光の中に、ゆっくりと溶けていく。

 

そうして、再び歩き出す。

 

何も残さず、何も持たず、けれど確かに何かを胸に灯して。

蒼き鏡に映されたあの静謐が、いつまでも遠くに揺れていた。




すべての音が水に沈むとき、世界はこんなにも深く、澄んで見えるのかもしれない。

秋という季節が持つ、終わりと始まりの静けさ。
そのなかで出会った風景の数々は、どれも名前を持たぬまま、確かに心の奥に刻まれていった。

旅の途中で見たその光景が、いつか誰かの記憶の片隅で、小さな波紋となって揺れてくれたなら、それだけで十分だと思う。
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