泡沫紀行   作:みどりのかけら

1572 / 1573
樹環の外縁にはまだ名前のない湿度が漂っている。
その湿度は皮膚の表面をなぞり、記憶の輪郭を曖昧にする。
歩き出す前から、すでに歩行の途中に取り込まれている。


足元の土は薄い層のように重なり、過去の沈黙を保持している。
踏み込むたびに、その沈黙は微かに沈み直し形を変える。
始まりという概念は、すでに遅れて背後に滲んでいる。


風はまだ方向を持たず、ただ圧として存在している。
視界の端で光が分解され、細かな粒となって漂う。
その粒の中へ、輪郭の曖昧なまま沈み込んでいく。



1572 静澄水境の樹環

静澄水境の樹環へ足を入れる。

湿った空気が皮膚に薄く絡む。

地平は曖昧に折れ曲がっている。

 

 

樹冠は薄い螺旋の影を落とす。

その影は地面で微かに脈動する。

足音は湿り気に吸われて消える。

 

 

苔の層に足裏が沈み込み始める。

冷えが骨へ遅れて伝わってくる。

苔は微かな体温を返さないまま揺れる。

 

 

水の気配が遠くから押し寄せる。

風は折れた音を含んで通過する。

遠景は水膜越しのように滲んでいる。

 

 

腕に触れる霧は微細な刃のようだ。

呼吸の重さが少しだけ増していく。

霧の圧は骨の内側で静かに反響する。

 

 

樹環の内側は時間が緩やかに曲がる。

歩幅だけが唯一の基準として残る。

時間の曲率が肌に薄い歪みを残す。

 

 

足元の泥が靴底を静かに奪おうとする。

それでも進行は止まらないまま続く。

泥の抵抗は思考より遅れて追いかける。

 

 

光は葉の隙間で分解され細片になる。

それらは肌の上で消えずに残留する。

光の粒は呼吸の度に位置を変えていく。

 

 

湖面の気配は見えぬまま揺れている。

水圧のような沈黙が周囲を満たす。

沈黙は水底のように深く沈殿している。

 

 

首筋に落ちる冷気が輪郭を曖昧にする。

意識は少しずつ外側へと滲み出す。

意識の輪郭が湿度に溶けていく感覚がある。

 

 

樹皮は無数の記憶の層として立ち上がる。

触れれば崩れるほどに脆くも見える。

樹皮の皺は視線を吸い込むように広がる。

 

 

指先が湿った空気を掴もうとして滑る。

その失敗が何度も繰り返されている。

滑り落ちた空気が再び指先へ戻ってくる。

 

 

遠い枝の揺れが地面へ影を伝播させる。

境界は常にわずかに遅れて追従する。

遅延する影は歩行の先へと回り込んでいる。

 

 

胸の奥に湿度が溜まり重さへ変換される。

呼吸はその重さに押し戻されながら進む。

重さは胸郭の内側で静かに層を成している。

 

 

樹環の中心は未だ現れない空白である。

空白は形を持たず周囲を定義し続ける。

空白は歩行の度に形を変えずに増殖する。

 

 

足裏の感覚が次第に地面と同化し始める。

境目は消えつつも確かに残響している。

同化した境目が微かな振動として残る。

 

 

水の反射が葉脈へと逆流する錯覚がある。

それは視界ではなく内部に生じる像だ。

逆流する像は視界の奥で層を作り続ける。

 

 

樹環を抜けると静澄水境の圧が緩む。

まだ歩き続けている影として残る。

緩んだ圧の余韻が背後から追い続けてくる。

 

 

樹環の外縁へ向かうほど空気は薄くなる。

足裏にはまだ湿った記憶が貼り付いている。

名を持たないまま次の層へ歩み入る。

 

 

湿りを帯びた静寂が背中で層を重ねる。

振り返る気配だけが淡く引き延ばされる。

残された静寂は足跡を覆い隠していく。

 

 

水面なき反射が胸の奥で揺れ続ける。

揺らぎは形を持たず深部へ沈み込む。

沈み込んだ光が静かな輪郭だけを残す。

 

 

静澄水境は境界を閉じずに佇み続ける。

歩みは次の静寂へと途切れず繋がっていく。

名を与えぬ余白だけが永く呼吸を続けている。

 




樹環の外側には再び薄い静寂が戻っている。
その静寂は以前と同じ形をしているようで、わずかに質量が異なる。
歩き終えた足裏だけが、その差異を確かに記録している。


背後に残る気配はまだ湿度を保ったまま揺れている。
それは記憶ではなく、通過したという事実の残響に近い。
振り返らずに、その揺れを身体の内側へ沈めていく。


空白は閉じることなく、静かに次の層へ移ろうとしている。
その移ろいに呼応するように、呼吸の深さだけがわずかに変わる。
終わりではなく、次の歩行の未定形へと溶けていく。
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