泡沫紀行   作:みどりのかけら

1576 / 1581
渓影回廊の入口は、地形ではなく湿度の裂け目として現れていた。
そこに立つと、皮膚の表面だけが先に谷へ沈み込む感覚がある。
境界は視覚よりも遅れて理解され、身体がそれに追いつく。


足元の砂礫は記憶の薄層のように崩れ、踏むたび形を変えた。
風は低く這い、呼吸の奥へ冷えた重さを差し込んでくる。
まだ歩き出していないのに、歩行の痕跡だけが先に進んでいた。


影は岩壁に貼り付くのではなく、空間そのものから滲み出ている。
その滲みは光の方向を曖昧にし、奥行きを均質に整えてしまう。
ただ、その均されていく深度の中へ足を置いた。



1576 刻流の渓影回廊

渓影回廊へ足を踏み入れると、湿った空気が皮膚に張りついた。

影を宿す硝子の岩肌が、微光を歪めて呼吸していた。

足裏に冷えた砂礫の重さが沈み、歩みがゆっくり溶けた。

 

 

風は谷底から上昇し、衣の隙間に刃のように潜り込む。

視界の水面は記憶の断片のように形を保てない。

岩に触れると、掌に他者の温度差が残った。

 

 

空は低く垂れ、光は水滴の粒として降りてくる。

歩く音は誰もいない谷で遅れて返る。

呼吸は冷たく、胸の奥で重さに変わる。

 

 

水流に沿って進むと、地形は螺旋を描いていた。

その曲線は身体の方向感覚を静かに狂わせる。

足首に跳ねる水は瞬間ごとに温度が違う。

 

 

岩壁の隙間の光は膜のように視界へ貼り付く。

残る気配は言葉を持たず、圧だけを伝える。

手を伸ばすと空気は抵抗し、指先を拒む。

 

 

渓流の音は近く遠く、距離の概念をほどく。

曖昧さの中で時間は水へ沈む。

肩の冷気が過去と現在を溶かす。

 

 

石は滑らかで踏むたび微かな反発を返す。

その反発は記憶では消えかけている。

谷奥へ進むほど光は糸へ分解される。

 

 

水面の影は遅れて私の形を模倣する。

その遅延は自然の法則のように感じられる。

指先を濡らすと温度だけが抜け落ちる。

 

 

岩肌の湿気は過ぎた存在の輪郭をなぞる。

意味はなくとも触覚だけが情報を持つ。

呼吸ごとに胸郭が軽く締め付けられる。

 

 

水は浅く底知れぬ深さを錯覚させる。

覗く視線は逆に観察されている気配がある。

その気配は均質で揺らがない。

 

 

風が通るたび肌の温度が書き換えられる。

書き換えられた感覚はすぐ馴染む。

砂礫は崩れ歩みを半歩遅らせる。

 

 

岩の影は形を持たず動いている。

それは欠落の痕跡のように見える。

触れれば消えると知りながら近づく。

 

 

水音の奥に振動があり骨に触れる。

その振動は身体へ先に届く。

歩みは止まらない。

 

 

空気は重く透明度だけが高い。

透明さが圧となり胸を押し広げる。

抗う術はなく受け入れる。

 

 

光粒は触れられない温度として漂う。

それは視線に合わせて形を変える。

身体は歩幅を変えて追う。

 

 

風は遠い匂いを運んでくる。

匂いは記憶の前段階のように曖昧だ。

足裏の冷たさが強くなる。

 

 

渓流は同じ景色を微かにずらして繰り返す。

時間だけが歪み続ける。

呼吸は浅く長く変わる。

 

 

谷の終端で音は膜のように広がる。

それは境界のように感じられる。

止まっても水の気配は通過する。

 

 

境界の手前で、硝子のような透明な圧が現れる。

それは目ではなく皮膚の内側に映る。

歩みはそこで一瞬だけ遅延する。

 

 

遅延の中で影は剥がれ落ち、別の層へ沈む。

沈んだ先で渓谷はもう一度形を変える。

まだ歩いているという事実だけを知る。

 

 

戻ることも進むことも等価な流れとして重なる。

足裏の感触は水と岩の区別を失い始める。

それでも渓影回廊は終わらず続いている。

 




渓影回廊を抜けたという確信は、歩みの終端ではなく遅れて訪れた。
身体の輪郭だけが谷の中に残留しているような感覚が続く。
それでも足裏には、まだ冷たい砂礫の記憶が貼り付いていた。


振り返ると、回廊はすでに地形としての連続性を失っていた。
そこには入口も出口もなく、ただ湿度の差異だけが漂っている。
呼吸は軽くなり、しかし完全には現在へ戻りきらない。


影はもう動かないのではなく、動く必要を失っただけだった。
歩くという行為の余韻だけを携えて立ち尽くす。
その余韻が次の谷へ続いていることだけを、身体が静かに知っていた。
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