泡沫紀行   作:みどりのかけら

1577 / 1580
霧の底に沈む前の世界は、まだ名を持たない湿度として揺れていた。
その揺れの縁に立ち、足裏へ集まる冷えた気配を確かめる。
歩き出すというより、沈黙の層へ身体を預けるようにして進む。


硝子の魂と呼ばれる影は、遠いどこかで割れずに漂っている気配だった。
その存在は輪郭を持たず、光の滲みとして視界の奥に残り続ける。
まだ触れていないそれを、すでに身体の内部で感じていた。


花波の無限庭へ続く地平は、平らではなく呼吸の起伏として横たわっている。
踏み入れる前から膝の奥に重さが生まれ、歩行の未来がわずかに歪む。
それでも、歪みそのものを道として選び取るほかないと知っていた。



1577 花波の無限庭

硝子の魂と呼ばれる影は、薄い霧の底で静かに沈殿していた。

その上を歩き出し、足裏に触れる冷えた圧を確かめる。

春の湿りは空気ではなく層となり、皮膚の内側へ染み込んでいく。

 

 

花波の無限庭は地の起伏を緩やかな呼吸へと変えていた。

踏み込むたび膝下が沈み、戻る力が遅れて身体へ返ってくる。

その遅延が歩行そのものの輪郭を曖昧にほどいていく。

 

 

影は形を持たず、しかし確かに温度の差として周囲に在った。

それに触れた瞬間、胸郭の奥にわずかな軋みを覚える。

息は吸うというより湿度を受け入れる行為へ変質していた。

 

 

硝子の破片のような光が地面の奥から散り、視界を柔らかく歪める。

指先をかざすと冷たい膜が絡みつき、皮膚の境界を薄めていく。

その感触は痛みではなく、記憶に似た遅い痒みとして残る。

 

 

無限庭の奥行きは距離を失い、深さだけが層として重なっていた。

足裏の圧は一定ではなく、波のように遅れて骨へ届いてくる。

その揺らぎに従い、歩幅を微かに調律し続ける。

 

 

花波は沈むたびに形を変え、地面は水面のように応答していた。

沈降は柔らかくも骨へと届き、内部に静かな振動を残す。

その振動を痛みと呼ばず、地の呼吸として受け止める。

 

 

硝子の魂の気配はときおり割れるように空間を震わせていた。

しかし破片は見えず、ただ皮膚の表面だけが微かに揺れる。

その揺れを頼りに、見えない進路を修正し続ける。

 

 

影と花の境界は溶解し、同じ湿度の層へと混ざり合っていく。

その層に半ば沈み、半ば浮いたまま歩行を続ける。

内と外の区別は薄れ、呼吸の意味さえ曖昧になる。

 

 

風は触れるたび温度を変え、肌の上に新しい膜を重ねていく。

その重なりは重さでありながら、同時に軽さへも転じていた。

身体は拡張され、境界を保つことをやめていく。

 

 

足跡は無限庭の底に沈殿し、過去の重さとして柔らかく残る。

踏み直すたびにその痕は再び立ち上がり、歩行を支え返す。

過去に押されながら現在へと進んでいく感覚を持つ。

 

 

硝子の光は遠くで薄く瞬き、存在ではなく余韻として漂う。

その余韻が足裏へ沈み、進む方向を静かに曖昧へと誘う。

曖昧さそのものを足場として選び取っていく。

 

 

花波の揺れは次第に規則を失い、呼吸のリズムへと近づく。

その間隙に身を置くと、時間は流れではなく密度へ変わる。

歩行は距離の測定ではなく、変質の速度へと変わる。

 

 

影は肩をかすめ、冷たい湿りだけを残して遠ざかっていく。

その接触は境界の存在を思い出させる唯一の確かな痕跡だった。

そこに留まらず、ただ進行という行為を続ける。

 

 

無限庭の中心に近づくほど、風は圧として身体内部へ浸透する。

押される力と押し返す力が均衡し、歩行は静止に似ていく。

それでも足は前へ出続け、均衡の上を滑るように進む。

 

 

硝子の魂は地の奥へ沈み、音の代わりに深い沈黙を残していた。

その沈黙は重さとして全身に乗り、歩行の軸を固定する。

その重さを背負うのではなく、受け容れて歩き続ける。

 




硝子の魂は割れることなく、ただ深い層へと沈み続けていた。
その沈降は終わりではなく、存在の密度を変えるだけの静かな移行だった。
それを見送るのではなく、同じ沈黙の中へ身体を溶かしていく。


花波の無限庭は輪郭を失い、湿度の記憶だけを残して後方へ遠ざかる。
足裏に残っていた圧は徐々に軽くなり、歩行の意味が曖昧へ戻っていく。
それでも内部にはまだ、沈み続ける振動が微かに残響していた。


影と光の境界はすでに溶け、その曖昧さの中で呼吸を続けている。
どこへ向かうでもなく、しかし確かに進んだという痕跡だけが身体にある。
その痕跡が次の地層へと続く予兆のように、静かに温度を保っていた。
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