泡沫紀行   作:みどりのかけら

1578 / 1579
月影の薄い層が、まだ名を持たぬ大地の上に静かに降り積もっていた。
その境界を、歩幅というよりも意識の延長として踏み越えていく。
風は方向を持たず、肌の表面でほどけながら記憶のない圧へと変わっていた。


草とも砂ともつかぬ地表は、触れるたびに微かな遅れを伴って沈む。
そこには過去の通過が残響として沈殿し、足裏にだけ温度差を残していた。
その差異を頼りに、見えない道の輪郭を確かめていく。


遠方には硝子のような気配が折り重なり、まだ開かれぬ舞踏の構造を孕んでいた。
その中心へ向かうというより、中心に引かれている感覚だけが身体を導く。
歩くという行為はすでに意志ではなく、環境の側からの呼吸になっていた。



1578 月影舞踏の幽旋祭

月影の薄膜の下、硝子の魂を宿す祭域へと、歩みを進めていた。

足裏に触れる大地は乾いているはずなのに、微かに湿りを含み、歩くたびに沈黙が滲む。

風は布のように肌を撫で、境界の曖昧な世界へと身体をほどいていった。

 

 

道の両側には草とも砂ともつかぬ群れが揺れ、触れるたび指先に冷えが残る。

そこに残るのは誰かの痕跡ではなく、通り過ぎた圧の余韻だけだった。

その余韻を踏みしめるように、さらに奥へと進む。

 

 

遠くで硝子が擦れるような気配が生まれ、空間の輪郭がわずかに歪む。

見えない何かが円を描き、静かな舞踏の構造だけが空に刻まれていた。

その中心へ近づくほど、呼吸の重さが増していく。

 

 

足裏はすでに地面を理解できず、歩く行為そのものが浮遊に近づく。

風は骨の間を抜け、内側から温度を奪うのではなく並べ替えていく。

自分の輪郭が薄くなる感覚の中で、それでも前へ進む。

 

 

草の上には、かつて誰かが通ったような温度の残滓が点在している。

触れると指先に微かな振動が残り、それは音にならない記憶のようだった。

その記憶は語られず、ただ湿度として空気に滲んでいる。

 

 

空には月が滲み、硝子の層を通して複数の影が重なって見える。

影は一つではなく、遅れて追従するように幾重にもずれていた。

それを見上げながら、自分の影の位置を確かめる。

 

 

地面は次第に柔らかくなり、足が沈むたびに遠い反響が返ってくる。

その反響は音ではなく、皮膚の内側に残る圧として感じられた。

歩くことがもはや移動ではなく、沈降に近い行為となる。

 

 

風の流れが途切れる瞬間、世界は一枚の硝子の板のように静止する。

その静止の中で、自分の呼吸だけがわずかに濁るのを知る。

濁りはやがて透明へ戻ることなく、層として積み重なっていく。

 

 

見えない円環の中心に近づくほど、足音は消え、代わりに重さだけが残る。

重さは外からではなく内側から押し上げるように存在していた。

その圧に従いながら、なおも歩幅を崩さない。

 

 

草と砂の境界は曖昧になり、触れるものすべてが同じ質感へ収束していく。

それは記憶のようであり、まだ名付けられていない感覚でもあった。

その名付けられなさの中を、静かに横切る。

 

 

月の光は細く裂け、地表に硝子の破片のような影を散らしている。

その破片を踏むたび、皮膚の奥で微細な振動が遅れて立ち上がる。

痛みではなく、ただ存在の輪郭だけがそこにあった。

 

 

風の盆めいた幽い気配が遠くで回転し、空間の密度をわずかに変える。

回転は音を持たず、しかし確かに身体の重心を揺らしていた。

揺れに逆らわず、ただその流れに足を預ける。

 

 

やがて視界の奥に、硝子の層でできた舞の広がりがうっすらと現れる。

そこには誰もいないはずなのに、圧だけが幾重にも折り重なっている。

その中心へ向かう歩みを止めない。

 

 

地面に触れる足裏はすでに感覚の境界を失い、空気と同化し始めていた。

歩くたびに私自身が少しずつ透明へと変換されていくのを感じる。

それでも進行は止まらず、世界は静かに私を受け入れていく。

 

 

影は増え続け、月の光の下で幾層にも折り重なった舞踏の形を成している。

その舞は完成されることなく、常に未完のまま循環していた。

その循環の外縁をなぞるように歩き続ける。

 

 

最後の一歩がどこにあるのか、もはや判断できないほど地平は曖昧だった。

しかし歩みは自然に続き、身体は風景の一部として溶けていく。

硝子の魂だけが、月影の中で静かに揺れていた。

 




月影の層はさらに薄くなり、世界は一枚の透明へと近づいていた。
その中で、境界を持たない存在へと静かにほどけていく。
歩みは終わったのではなく、最初から存在しなかったように消えていく。


硝子の魂と呼ばれていたものは、もはや形ではなく揺らぎとして残っている。
それは私の内側にも外側にも属さず、ただ空間の密度として漂っていた。
触れることも見届けることもできないまま、均衡だけが続いている。


風の盆めいた回転は止まることなく、沈黙の中で循環だけを維持していた。
その循環の一部として、終わりではなく継続の層へと溶け込んでいく。
最後に残ったのは、歩いたという痕跡ではなく、歩みそのものの気配だった。
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