泡沫紀行   作:みどりのかけら

1586 / 1592
紅葉の境域へ入る前、まだ薄い湿度の層の外側に立っていた。
地面は遠くまで緩やかに傾き、落葉の気配だけが先へ先へと流れていく。
その流れは音を持たず、足を踏み出す前から歩行の形を決めていた。


風は樹々の隙間を縫い、冷えた指先のように頬へ触れては消えていった。
その接触の痕跡を追い、まだ見ぬ奥行きの重さを想像するしかなかった。
空は淡く曇り、光は層を重ねるように地表へ沈んでいる。


境界の手前では、すべてのものがわずかに遅れているように感じられた。
紅葉の赤も、影の濃さも、まだ名を持たないまま揺れている。
その遅延の中へ、静かに足を差し入れた。



1586 紅葉に紡がれる獣神の囁き

紅葉の泡立つ境域を、足裏で確かめながら歩いていた。

湿った落葉は薄い膜のように地面を覆い、踏むたびに微かな沈黙を返す。

空は低く、光は斜めに折れながら頬を掠めていった。

 

 

風は遠くで獣の息のように揺れ、肌に触れる前に形を失う。

その揺らぎの中に、見えない重さが潜んでいる気配があった。

その重さを避けず、むしろ胸の奥へ受け入れていく。

 

 

樹々は細い骨のように並び、紅葉はその骨の上で脈を打っていた。

歩くたびに、枝先から透明な破片がこぼれ落ちる。

それは硝子に似て、しかし音を持たずに砕けていった。

 

 

足元の土は冷たく、時折わずかな熱を返してくる。

その温度差が、誰かの残響のように皮膚へ滲んだ。

その痕跡を追うように、さらに奥へ進む。

 

 

やがて紅葉の密度が増し、視界は赤に沈みはじめた。

赤は光ではなく圧となり、呼吸の間に入り込んでくる。

その圧の中で、自分の歩幅を確かめ直した。

 

 

苔むした石の列が現れ、そこに触れると冷たさが指先へ移る。

その冷たさは、長い時間の沈黙を含んでいた。

石に残る見えない温度を辿るように手を離さない。

 

 

境域の奥に、社に似た影が浮かび上がっていた。

その輪郭は固定されず、見るたびにわずかに揺れている。

まるで記憶そのものが形を保てずに滲んでいるようだった。

 

 

紅葉はその影へ向かって流れ込むように降り積もる。

葉の一枚一枚が、何かの囁きの残骸のように感じられた。

耳ではなく皮膚で、それを受け取っている。

 

 

その前で立ち止まり、地面の震えを足裏で聴いた。

震えは規則を持たず、しかし確かな意志のように続いている。

その不規則さが、逆に確かさとして沈んでいった。

 

 

空気はわずかに甘く、鉄の匂いを含んでいた。

その混ざりは記憶の境目のように曖昧で、掴めない。

その曖昧さを呼吸に変えていく。

 

 

社の影の奥から、獣神の気配が滲み出していた。

それは姿ではなく、空間の歪みとして現れている。

歪みは紅葉を揺らし、時間の密度を変えていった。

 

 

その歪みへ一歩踏み込むたび、重さが増すのを感じる。

足は沈むが、同時にどこかで軽くなる矛盾があった。

その矛盾が旅の中心へ私を引き寄せている。

 

 

硝子のような光が、樹の隙間から零れ落ちていた。

その光は触れると冷たく、すぐに形を失う。

その消失の瞬間に、何かの記録を見た気がした。

 

 

紅葉の層はさらに厚くなり、音の代わりに圧が満ちる。

その圧は私の皮膚の内側まで浸透していく。

境界が曖昧になり、外と内が交わりはじめる。

 

 

足元の土は柔らかく、しかし確かな抵抗を持っていた。

その抵抗が歩みを支え、同時に拒んでいる。

その拒絶の形を確かめるように進む。

 

 

社の輪郭はさらに崩れ、紅葉と同化しはじめた。

そこには存在と不在の区別が薄く広がっている。

その薄さの中に、自分の影を見た。

 

 

獣神の囁きは、もはや音ではなく温度として残っていた。

その温度は背骨をなぞり、記憶の奥へ沈んでいく。

それを追うことなく、ただ受け止める。

 

 

紅葉は空へ向かって逆流し、時間の流れを乱していた。

その逆流の中で、歩行そのものを失いかける。

しかし足裏の感覚だけが、確かに地を捉えている。

 

 

境域の中心で、硝子のような魂の気配に触れた。

それは壊れる直前の静けさをまとい、揺れている。

その揺れが紅葉のすべてを一つに束ねていた。

 

 

やがてその中心を通り過ぎ、再び紅葉の海へ戻る。

振り返ると、社の影は既に風景へ溶けていた。

残されたのは、足裏に残る微かな熱だけだった。

 




紅葉の深層を抜けた先で、再び薄い空気の層へ戻っていた。
背後にあったはずの社の影は、もはや確かな輪郭を持たず、風景の一部として溶けている。
それでも足裏には、まだ微かな圧の残響が居座っていた。


歩みは軽くなっているはずなのに、内側だけが重さを覚えていた。
その重さは獣神の囁きの名残のように、呼吸の隙間へ沈み込んでくる。
それを振り払うことなく、ただ歩幅に変えていく。


紅葉の記憶は視界の外側で静かにほどけ、やがてただの温度差へと還っていった。
しかしその温度は消えず、旅の輪郭として身体の奥に留まり続ける。
それを確かめるように、もう一度地面を踏みしめた。
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