泡沫紀行   作:みどりのかけら

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歩き続けるうちに、世界の輪郭が少しずつほどけていくことがある。
風の匂いや、水の音、湿った土の感触が、心の深いところに触れてくる。
あの日、たどり着いたあの場所もまた、そんな静かな境界のひとつだった。

夏の終わりの光が、やわらかく揺れる頃。
水と風の交わるほとりに、言葉にならない時間が静かに眠っていた。


0159 水と風の境界に佇む楽園

淡く白む朝の底から、潮のにおいが立ち上がっていた。

風はまだ眠っていて、ただ微かに葉を撫でていた。

 

苔むした小道を踏みしめるたび、靴底に吸い寄せられるような冷たさがじんわりと伝わってくる。

昨夜降った霧雨が石を湿らせ、草を重くしていた。

濡れた空気は、音を遠ざけ、時間を丸ごと閉じ込める。

足音は深く、世界の底に沈んでいくようだった。

 

やがて、小道が開けた先に、風が棲む岬が現れた。

風が、音のない言葉で額を撫でてくる。

肌に触れるというよりも、記憶の奥に触れるような、遠く、柔らかなもの。

 

崖縁の岩には、かつて誰かが腰かけた気配がある。

風に吹かれながら、長い時間を黙って過ごしたかもしれない、そんな輪郭の残る沈黙。

 

下方に広がる海は、まだ眠っていた。

青でもない、灰でもない、名を持たぬ色が、ただ静かに揺れている。

その揺らぎを写すように、空の雲もまた、輪郭を溶かして流れていた。

 

崖下に降りていく道はなかったが、岩の間を縫うようにして斜面を歩いた。

草と岩が交互に足を取る。

手をついて登ると、指に草の露が染みた。

微かな痛みとともに、土の匂いが爪の隙間から立ち上がる。

 

岩場の端に、小さな水の溜まりがあった。

そこには空と、風のかたちが映っていた。

見えない風が、水面を細く揺らし、空の色をゆっくりと塗り替えていく。

 

水面の奥、沈黙の奥、言葉になる前の想いのように、小さな魚の影がすっと走る。

音はなかった。ただ、気配だけが満ちていた。

 

遠くに、風の音が戻ってきた。

海の呼吸と混ざり合い、崖に当たってほどけていく。

そのとき、何かが心の奥でひとつ、静かにほどけたような気がした。

名前もない、説明もいらない感覚が、呼吸のなかに広がっていく。

 

背を向けて歩き出すと、さっきまでの空がもう別の表情をしていた。

雲は少し薄くなり、光が斑に降りてくる。

 

斜面を下る途中、草むらに赤い実がひとつ落ちていた。

熟れきったその実は、かすかに甘く、そして発酵しかけた香りを放っていた。

手に取ると、指先にほのかにぬめりが残る。

生命の気配が濃密に指に絡んだ。

 

海辺に近づくにつれて、風が音を帯びてきた。

草の間を走る音。岩を撫でる音。波を誘う音。

すべてが調和し、言葉に還らぬ物語となって胸の奥に降り積もっていく。

 

潮の引いた浜辺には、小さな貝が散らばっていた。

割れたもの、欠けたもの、磨かれて形を失ったもの。

 

そのなかで、ひとつだけ、欠けながらも光を持つ貝殻があった。

内側に秘めた虹色が、日に透けてわずかに輝いている。

拾い上げると、掌の温度に貝がゆっくりと馴染んだ。

 

波が寄せては返す。

音のない約束のように、永遠に繰り返されるその動きのなかに、ふと、自分の呼吸も重なっていることに気づく。

 

波打ち際を離れ、背の高い草が揺れる道を歩いた。

陽は少しずつ高くなり、光の粒が葉の影からこぼれ落ちる。

水の気配を帯びた風が、肩を撫で、髪をとかすように過ぎていった。

 

遠くに、木々のざわめきがあった。

それは言葉ではなく、過ぎ去った季節たちの記憶のような音だった。

木の皮の間に刻まれた時間、枝の先に残された小さな祈りのようなものが、静かに揺れていた。

 

踏みしめるたび、足裏がやわらかな苔を感じる。

その感触は、まるで夢のなかの道を歩いているようだった。

視界の隅で、小さな蝶が羽を震わせる。

白くて、透きとおって、消えてしまいそうな気配だった。

 

森の中に、一筋の水が流れていた。

石の間を縫って流れるその水は、音を立てず、ただ静かに、そして確かに、どこかへ向かっていた。

その傍らには、小さな木の実や、誰かが忘れていったかのような羽根が落ちている。

 

水に手を浸すと、骨の奥まで冷たさが染み込んだ。

冷たいというよりも、遠い。

この水はずっと昔からここにあり、ずっと先までもここにある気がした。

 

風がまた変わった。

さっきよりも強く、湿り気を帯びている。

鼻先に、緑と塩のまじる匂いがかすかに漂った。

 

視界が開ける。

そこは、風と水が出会う境界だった。

 

草と岩と砂のあいだを、水が低く走り、風が追う。

水面が波打ち、砂がわずかに舞い、風はその砂を運んでいく。

世界のすべてが、ある一点で交わっているように感じられた。

 

その境に立ち、目を閉じる。

耳に入るのは、水の音。風の音。葉の震える音。

何かが始まり、何かが終わる、その刹那のあいだにある音。

 

やがて、足元の草が揺れ、小さな花が見えた。

白くて細い、ひとつの花。

誰にも見られずに咲き、誰にも気づかれずに揺れている。

その儚さに、心のどこかがふるえた。

言葉にならない想いが、胸の奥に静かに満ちていく。

 

午後の光は、徐々にその角度を変えながら、長い影を生み出していた。

水面の輝きも、少しずつ和らいでゆく。

 

草を抜けた先、小さな入り江があった。

風が一度止み、世界が息をひそめる。

水は鏡のようになり、空の色を完璧に写していた。

 

入り江の端には、丸く削られた岩が寄り添うように並んでいた。

そこに腰を下ろすと、ひんやりとした感触が背を伝ってくる。

背後の木々から、鳥の羽ばたきが聞こえた。

 

掌にまだ残っていた貝殻を、そっと水辺に置く。

それは波に触れると、たちまち揺れ、光を反射しながら、ゆっくりと水の奥へ沈んでいった。

 

その様子を見届けたあと、しばらく動けなかった。

風も、音も、ただそこにあった。

すべてが、満ちていた。

 

そして、少しだけ空が色を変えはじめた。

一日の終わりが近づいている。

けれど、それは寂しさではなかった。

ただ、静かな、満たされた終わりの気配。

 

草をかき分けて再び歩き出すと、背後で波がまたひとつ、優しく崩れた。

振り返らずとも、その音だけで、すべてがそこに在ると分かった。

 

風の匂いは変わらず、ただ、どこかやわらかくなっていた。

歩くたびに、身体がその風と調和してゆくのが分かる。

やがて風のなかにまぎれ、境界が消えてゆく。

 

空と海と風と大地のすべてが、少しずつ、少しずつ、ひとつになっていく感覚。

そのなかで、静かに、深く、胸の奥がやすらいでいった。




何も語らずに咲いていた花のことを、今もときおり思い出す。
誰にも知られず、誰にも求められず、それでも確かに在ったことが、こんなにも深く心に残る。

あの静けさに包まれていた時間の気配が、ふとした瞬間、風のなかに戻ってくる。
それはもう、あの場所にだけあるものではなく、歩く先々に滲んでゆくものなのかもしれない。
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