泡沫紀行   作:みどりのかけら

1598 / 1620
凍結した白い谷は、まだ名を持たない呼吸の中に沈んでいた。
風は細い硝子片のように空間を横切り、地表を薄く削っていく。
その裂け目の入口に立ち、歩みの始まりだけを静かに受け取った。


足元の雪層は層を重ねた記憶のように硬く、踏み込むたび微細に沈んだ。
身体の内側では温度がゆっくりと収縮し、輪郭が研ぎ澄まされていく。
遠い深部で何かが脈打つ気配だけが、進行方向を曖昧に示していた。


黒い谷の奥には、光の断片が折り畳まれたまま滞留している。
それは水でも炎でもなく、圧縮された時間の層のように感じられた。
その重さを、まだ名前のないまま背負って進み始めた。



1598 雷光の水脈炉

凍てつく白光の谷を、徒歩で渡った。

風は硝子を擦るように肌を削った。

遠くに雷紋の脈動が沈黙していた。

 

 

足裏に積もる霜は薄い膜のようだった。

それは歩みごとに剥がれ、音もなく砕けた。

呼吸は冷えた水脈へ溶けていく感触があった。

 

 

黒い崖の裂け目に、光の揺らぎが差し込む。

そこは水ではなく熱の記憶が流れていた。

触れれば指先が微かに痺れる密度だった。

 

 

岩肌を伝い、狭い道なき道を進んだ。

背後には温度の残響だけが遅れて落ちる。

影は遅れて歩き、身体の輪郭を引き延ばす。

 

 

胸郭に冷気が刺さり、呼吸が重くなる。

足首には見えない重圧が絡みついていた。

それでも歩行は止まらず、意志は沈黙したままだ。

 

 

黒い崖の裂け目に、光の揺らぎが差し込む。

そこは水ではなく熱の記憶が流れていた。

触れれば指先が微かに痺れる密度だった。

 

 

縁へ降り、掌で岩壁の冷たさを確かめた。

冷却された記憶のように表面は滑らかだった。

指先の熱だけが、かすかな抵抗として残る。

 

 

水脈は流れではなく、圧縮された時の層だった。

足元に立つと、地面がわずかに呼吸する。

その揺らぎが膝へ静かに伝わってきた。

 

 

雷光は音を持たず、内部で折り畳まれていた。

それは光というより思考の断片に近い。

見つめるほど視界の奥が湿度を帯びる。

 

 

裂け目へさらに深く身を傾けた。

風圧が背中を押し、境界を曖昧にする。

身体と空間の区別が薄れていく感覚があった。

骨の内側に微かな震えが残る。

 

 

硝子化した水脈は微細に震え続けている。

触れた瞬間、時間の粒が指に残った。

それは記憶の温度を持たない痕跡だった。

 

 

谷底には誰の気配もなく、余韻だけが満ちる。

それは声ではなく圧力の変化として感じられた。

その中を歩き続けるしかなかった。

圧の層が衣のように肌へ貼りつく。

 

 

足元の光は細く割れ、闇へ沈み込む。

その境界で温度差が鋭く立ち上がる。

皮膚はその刃を受け止めていた。

 

 

雷紋の中心へ近づくほど静寂は濃くなる。

音の代わりに圧縮された空気が満ちる。

耳ではなく骨でそれを聴いていた。

 

 

黒硝子の縁に立ち、下を見下ろした。

深部では光が結晶のように回転している。

その運動は時間を逆撫でするようだった。

 

 

体温は徐々に奪われ、輪郭だけが残る。

それでも歩みの記憶は足裏に沈んでいる。

進むというより、沈降していく感覚だった。

 

 

水脈炉の核心に、微かな空洞が開いていた。

そこから透明な雷が呼吸するように漏れる。

それは生き物ではなく現象の胎動だった。

 

 

その前で長く立ち止まる。

影は私より先に空洞へ触れていた。

その瞬間、時間がわずかに遅れる。

影がわずかに遅れて追う。

 

 

周囲の硝子は静かに振動を強めていく。

世界の境界が薄皮のように剥がれかける。

それをただ受け入れるしかなかった。

 

 

最後に残るのは歩いたという感覚だけだった。

雷光の水脈は背後で静かに閉じていく。

再び凍てた谷へと戻っていく。

 




雷光の水脈炉は背後で静かに閉じ、裂け目は薄い影へと還っていった。
振り返る視界には、ただ温度を失った空間の残響だけが漂っている。
その境界を越えたまま、再び凍てつく谷の歩行へ戻っていた。


足裏に残るのは硬い雪ではなく、微細に震える記憶の粒だった。
呼吸のたびに胸の奥で圧がわずかに歪み、遠い雷紋の余韻が滲む。
身体は軽くも重くもなく、ただ層の薄さだけを保って進んでいく。


遠くで世界が折りたたまれる音なき気配が、ゆっくりと離れていく。
影はまだ遅れて歩き続け、私の輪郭を微かに引き伸ばしていた。
そのまま、次の名も知らぬ谷へと静かに歩みを継いだ。
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