泡沫紀行   作:みどりのかけら

1599 / 1621
泡沫の層を抜ける前、まだ名のない熱の縁に立っていた。
夏は均質ではなく、薄い膜のように折れ曲がりながら呼吸していた。
その向こう側に、虚空裂環と呼ばれる歪んだ開口が沈んでいる気配があった。


足を踏み出す前の地は静かで、しかし静けさそのものが重さを持っていた。
皮膚の表面には見えない圧が触れ、歩行の予感だけが内側で先行していた。
まだ歩いていないのに、すでに遠ざかる地平の残響を感じていた。


硝子の魂が宿るという古い記録は、言葉ではなく温度として残っていた。
割れない透明さが歪みながら脈打つ想像は、視界の端で揺れていた。
その揺らぎが、旅の始まりを静かに押し出していた。



1599 虚空裂環の古地核

泡沫の層を抜け、裂け目の縁に立った。

夏の熱は高く、空気は薄い硝子の膜のように震えていた。

 

 

足裏に伝わる地は柔らかく、沈むたびに遠い響きが戻ってきた。

見えない圧力が歩行を内側から押し返す。

沈み込みは歩幅ごとに深くなる。

 

 

この地には硝子の魂が宿ると記録されている。

割れずに歪む透明な意志が、熱の中で呼吸していた。

透明な核は内部で微かに軋む。

 

 

虚空裂環と呼ばれる亀裂は、空間そのものの縫い目のように開いている。

そこから冷たい影が漏れ続けていた。

裂け目は呼吸のように開閉していた。

 

 

歩くたびに膝から重さが滲み、骨の奥に湿った抵抗が沈む。

汗は風に奪われる前に皮膚へと戻ってきた。

 

 

風は一定の方向を持たず、身体の周囲で折れ曲がっている。

熱と冷えが同時に肌を撫で、境界が曖昧になる。

その揺らぎは皮膚の内側まで届く。

 

 

誰かが通った痕のような圧が地表に残り、そこだけ温度が違っていた。

その差異を辿りながら進む。

残像は前方ではなく足元に滞留する。

 

 

古地核と呼ばれる中心は、地層のさらに奥で脈動しているらしい。

耳ではなく足裏でその鼓動を感じ取った。

古い脈動は石の記憶を揺らしている。

 

 

上空の気配は薄く裂け、光は均質さを失って散乱している。

影は物体を持たずに地面へ沈殿した。

光の欠片は風より遅れて落下する。

 

 

足元の岩は乾いているのに、触れると内側に水分のような柔らかさがあった。

現実の硬さが裏返る感触だ。

 

 

かつてここを歩いた痕跡の残響を想起する。

記憶は他者のものか自分のものか判別できない。

他者の影は水面のように揺れて消える。

 

 

裂け目へ近づくほど、重力は横へと傾き始める。

身体は歩行の意味を失い、ただ前へ押し出される。

 

 

湿度は視界にまとわりつき、輪郭を溶かしていく。

皮膚は空気を吸い込み、境界が薄くなる。

 

 

沈黙は音の欠如ではなく、圧縮された密度として存在していた。

耳ではなく胸郭がそれを受け取る。

密度は呼吸の隙間を埋めていく。

 

 

硝子の魂は割れることなく微細なひびを増やし続ける。

そこに光が差し込み、内側から世界を再構成する。

 

 

裂環の縁は螺旋状に歪み、歩行の軌道を外へ逃がす。

その逸脱に従うしかなかった。

 

 

足裏はもはや地面ではなく、薄い膜の上を滑っている。

冷えが骨髄まで侵入し、時間の感覚が崩れる。

 

 

過去と現在の区別は剥がれ落ち、同じ湿った層として重なる。

呼吸は区切りを失い、連続した圧になる。

 

 

古地核の鼓動は近づくほどに静かになり、代わりに内側の音が増幅する。

自分の中心へと沈む。

その振動は私の輪郭をほどいていく。

 

 

裂け目の底には終わりではなく、別の始まりの薄い光があった。

その光の縁で歩みを止める。

光は足元で静かに形を変え続ける。

 




裂け目の縁を越えたあと、歩くという行為の輪郭を見失っていた。
足裏は地を捉えず、ただ薄い層の上を滑る感触だけが残っている。
身体は軽くなるのではなく、逆に内側へ沈み続けていた。


背後の虚空裂環は閉じることなく、しかし開き続けることもなかった。
その曖昧な状態が、時間の流れを緩慢にほどいていく。
その場に留まらないまま、どこにも到達していなかった。


古地核の鼓動は遠ざかり、代わりに自身の内部で微かな振動が続いていた。
それは記憶とも予感とも異なる密度で、静かに重なり続ける。
やがて、歩いているのか漂っているのかさえ問わなくなっていた。
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