泡沫紀行   作:みどりのかけら

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白く光る静寂に導かれるままに、
ひとは歩き、
語らぬものたちの記憶に触れる。

そこには始まりも終わりもない、

ただ「今」が静かに息づいていた。


0016 湖底の記憶

陽の角度が変わるたびに、

風が過ぎていくたびに、

色を変える白がある。

 

それは雪ではなく、霧でもなく、

何か遠い記憶の粒のようなものだった。

 

わたしはそれを踏みしめながら歩いた。

足元にはぬかるみも、石も、根のひとつさえなく、

ただ、音もなく押し返してくる柔らかな大地が広がっていた。

 

足音はしない。

鳥の影さえ、落ちてこない。

 

ただ前方に、

すべてを受け容れてきたような

ひとつの白い水面が

まどろむように、たたずんでいた。

 

その湖は静けさそのもので、

けれど静けさとは、なにかを終えたあとの無ではなく、

すべてを孕んだまま、語らずに在ることの、

深い、深い存在だった。

 

水のきらめきは空と似ていたが、

空は流れゆくもの、

湖はすべてを沈めたあとも、なお留め続けるもの。

 

境界はどこにもなく、

ただ湖と空の色が、

一つの白に吸い込まれていた。

 

湖の中央には

まるで誰かが

眠りの中でそっと手を差し出したかのような、

丸く静かな島がいくつか浮かんでいた。

 

それらは浮かんでいるというより、

水に溶け出す寸前で止まっているようだった。

 

島々には名もなく、形も確かではなかった。

近づくほどに輪郭を失い、

まるで記憶の断片が

水面に浮かび上がったようだった。

 

私は足を進める。

 

小さな入り江のくびれを越え、

濡れた苔に足を取られながら、

森のふちを回る。

 

そこには、

もう誰も通らなくなったであろう細い獣道があった。

 

一歩ごとに

足の裏から冷たく湿った土の匂いが立ちのぼる。

 

やがて木々の間から、

淡い光がにじみ出す。

 

そこには水辺があった。

 

水面には何も映っていなかった。

空の光も、森の影も、

私の姿さえも、なかった。

 

ただ白かった。

すべての色を記憶したのち、

何も映さなくなった鏡のように。

 

湖畔に立ち尽くしていると、

風がいくつかの葉を吹き、

水の上を滑るように音もなく過ぎていった。

 

それは、

時間がほんの少しだけ動いた証のようだった。

 

ここでは、

時もまた、

水の底に沈んでいるのかもしれなかった。

 

わたしは腰を下ろし、

湖の端に掌をつけた。

 

冷たさはなかった。

温かさもなかった。

ただ、深いものだった。

 

そこには

かつて誰かが見た夢や、

言葉にならなかった祈りが

まだ濁ることなく棲んでいる気がした。

 

そして

気づかぬうちに、

私は涙を流していた。

 

感情ではなかった。

郷愁でもなかった。

 

もっと、古い。

生まれるより前の、

魂が知っていた何かに、

触れてしまったのだろう。

 

水は動かず、風も止まり、

音も色も、すべてが

均質に溶けていく。

 

永遠とは、きっと、

こんな白の中にある。

 

消えないでも、残らないでもなく、

ただそこに、あって。

 

──わたしは

記憶の湖の縁に立ち、

誰のものでもない光の中へと

また、歩き始めた。




白い湖のほとりで、私は一度も振り返らなかった。

あの島々も、湖底に眠る記憶も、
きっとこれからも、誰の目にも触れずに、
そこに在り続けるのだろう。
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