泡沫紀行   作:みどりのかけら

1600 / 1629
雪のまだ生まれきらない気配が、地面の奥で静かに呼吸している。
その呼吸の上を、足音を沈めるようにして進んでいく。


遠く、硝子が割れないまま歪むような光が滲んでいる。
それは道ではなく、記憶の表面張力のように揺れている。


秋の名残が風の裏側に貼りつき、乾いた音を微かに返す。
ささらの舞に似た痕跡が、まだ始まっていない夜を撫でている。



1600 雪籠りの鈴舞夜

雪を内側から折り畳んだような夜の回廊を、歩いている。

影を宿す硝子の魂と呼ばれる気配が、足裏の奥で微かに鳴る。

 

 

風は薄い板のように身体へ重なり、呼吸の境目を曖昧にする。

雪籠りの空は音を吸い込み、遠い圧だけが肌に残っていく。

冷えの層が肺の奥に沈み、吐き出すたびに白さが薄く剥がれる。

 

 

足は沈むたびに冷えた深さへ触れ、時間の層を踏み抜いていく。

指先まで痺れる感覚が遅れて広がり、歩行の輪郭を薄くする。

踏み跡はすぐに雪に閉じられ、進行の証だけが消えていく。

 

 

誰かの残響が雪面に滲み、形を持たない足跡だけが続く。

振り返るたびに温度差だけが揺れ、存在の名は結ばれない。

気配の端がほどけ、記憶に似た濃度だけが残る。

 

 

遠い気配がささらの舞のように揺れ、木片の擦過音が空を満たす。

五箇山ささら踊りと呼ばれる残像が、雪の中でほどけては結ばれる。

回転する空白が視界の端を撫で、中心だけが静止している。

 

 

硝子の魂は地平に薄く浮かび、光ではなく割れ目として見えている。

触れようと伸ばした手の先で、透明な痛みだけが反射する。

表面は存在せず、接触の瞬間だけが遅れて戻ってくる。

 

 

雪解け水のような冷えが膝から上へと遅れて這い上がる。

皮膚の奥で凍結と融解が交互に起こり、歩幅が静かに乱れる。

骨の隙間に水音にも似た沈黙が満ち、動きが重くなる。

 

 

道は細くなり、影の厚みだけが増していくように感じられる。

両側の空白が近づき、進むこと自体が押し戻されていく。

境界が呼吸に合わせて収縮し、通過の概念が曖昧になる。

 

 

風は鈴のような残響を含み、目に見えない舞台を揺らす。

音のない鈴舞夜が、耳ではなく骨に直接触れてくる。

振動は遅れて皮膚に浮かび、触れられている錯覚だけが残る。

 

 

肩に積もる重さが雪よりも静かに増し、歩行の軸を傾ける。

呼吸のたびに胸郭がきしみ、内側の空洞が広がっていく。

重さは外からではなく内側から沈み込み、支点をずらす。

 

 

雪の底に秋の色が沈殿し、枯れ葉の記憶が冷えている。

ささらの気配が風に混ざり、季節の境界が曖昧にほどける。

温度の差異だけが時間を示し、移ろいは音を持たない。

 

 

見えない輪が地面に刻まれ、舞の痕跡だけが回転している。

その中心を外れたまま、静かな圧の外周を歩く。

円環の速度が遅くなり、空間そのものが沈黙へ収束する。

 

 

硝子の魂は割れながらも形を保ち、光を拒む器となる。

そこに映るのは私ではなく、歩き続ける影の遅延だけである。

割れ目の縁から冷気が滲み、内部と外部の差が消えていく。

 

 

冷えと熱が交差し、皮膚の境界が一度ずつ書き換えられる。

身体は雪の内部に沈み込み、輪郭を持つことをやめていく。

感覚の遅れだけが残り、現在という層が薄く剥離する。

 

 

記憶のようなものが雪面に滲み、名を持たない場へ流れていく。

それを掬おうとする意志だけが、遅れて手の形を残す。

掬い損ねた空白が指の間に残り、触覚だけが戻らない。

 

 

雪籠りの層はさらに厚くなり、空間は静かに折り畳まれる。

その折り目に沿って歩き、出口の概念を失っていく。

折り重なる静寂が重力のように働き、進行を均す。

 

 

ささらの舞は周囲の雪を巻き込み、円環の気配を強める。

鈴舞夜の中心で、硝子の魂が微かに共鳴を始める。

共鳴は音ではなく圧として広がり、足元の雪を震わせる。

 

 

歩みは止まらないまま、夜は透明な深さへ沈んでいく。

その深さの中で、影と硝子の境界が溶けるのを見ている。

 




雪はすでに私の内部にまで入り込み、境界を名乗るものを消している。
歩いたはずの道だけが、遠くで静かに折り畳まれている。


硝子の魂はもはや外側に見えず、呼吸の奥で微かに震えている。
その震えが、終わりという概念をゆっくりと曖昧にしていく。


鈴のない鈴舞夜は、音を失ったまま続いている。
止まらず、止まるという意味だけを薄く抱えたまま沈んでいく。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。