泡沫紀行   作:みどりのかけら

1602 / 1627
薄い朝霧は地面ではなく記憶の上を流れ、その揺らぎを踏み分けるように歩いていた。
足裏へ返る湿りは道のものではなく、誰にも綴られなかった夢の名残に思えた。


秋の匂いはまだ遠く、風だけが先に季節を運んでいた。
頬を撫でる冷たさは次の景色を知らせる気配となり、身体の奥へ静かに沈み込んでいく。


泡のように浮かぶ世界では、辿り着く場所より歩き続ける時間のほうが確かだった。
重さを失いかけた影を連れ、波音にも似た沈黙のほうへ足を運んだ。



1602 波間に取り残された記憶の屋敷

潮の匂いに似た薄い記憶が、足首へ静かにまとわりついた。

泡の野を歩き、その湿りが靴底より先に昨日を濡らすのを受け止めた。

 

 

波の形だけが残る白い丘を越えると、古い屋敷が霧の縫い目から現れた。

壁は幾度も夢を継ぎ接がれたように色を変え、触れる前から指先へ重さを渡してきた。

 

 

戸口は閉じているのに、隙間だけが秋風を通していた。

頬へ当たる冷えは細く、それでも胸骨の裏まで届くほど深かった。

 

 

軒下には乾いた葉が集まり、踏むたび軽い抵抗を返した。

その音にならない崩れ方は、誰かではなく余韻だけをここへ置いていた。

 

 

柱へ掌を添えると、木肌は冷たさより先に湿度を伝えた。

年輪の奥で眠る時間が、皮膚へ細かな脈のように滲んだ。

 

 

窓は海色を映さず、空の淡い裏側だけを抱いていた。

硝子に似た膜へ息が触れると、輪郭だけが曇り、薄く世界へ溶け込んだ。

 

 

庭には名を失った石が並び、苔は柔らかな影を育てていた。

足裏へ返る弾力が、遠い季節を静かに持ち上げる。

 

 

風は角を曲がるたび温度を替え、屋敷の内外を縫い合わせていた。

肩へ落ちる冷気は布より重く、歩幅をゆるやかに細めてゆく。

 

 

廊のような空白を進むと、床は沈まず記憶だけを揺らした。

膝に届くかすかな圧が、まだ形を選びきれない夢を支えていた。

 

 

壁の継ぎ目には淡い塩が浮かび、指先でなぞると細かな粒がほどけた。

そのざらつきは言葉にならず、残響だけが皮膚の奥へ沈んだ。

 

 

天井近くを流れる薄明は、水面より静かな揺れを繰り返した。

まぶたの裏まで白さが染み込み、呼吸は秋の深さへ少し近づいた。

 

 

屋敷の奥ほど空気は軽く、足取りだけが不思議に重くなった。

踵へ集まる冷えが、歩いてきた道を見えない糸で結び直していた。

 

 

柱影には温度差だけが残り、誰とも呼べない痕跡が揺れていた。

その境目へ手を差し入れ、乾きと湿りが混ざる瞬間を受け止めた。

 

 

波は遠くで砕けるのでなく、床板の内側で静かに返していた。

耳ではなく胸へ届く震えが、旅の輪郭を少しだけ柔らげた。

 

 

庭へ戻ると落葉は位置を変え、風圧だけが通り過ぎた証を残した。

裾を払う指先へ細かな冷気がまとわり、秋はまだ離れなかった。

 

 

屋敷の壁は夕色を吸わず、淡い灰だけを育て続けていた。

その静けさへ肩を預けると、体温は境界を忘れ始めた。

 

 

歩き出すたび背中の軽さが増し、かわりに足裏へ世界が集まった。

柔らかな土は私を沈めず、旅路だけを深く刻み続けた。

 

 

振り返ると屋敷は霧へ戻り、継ぎ接がれた夢だけが輪郭を保っていた。

波間に取り残された記憶は、崩れず薄く呼吸する影となる。

 

 

その影を持たず、ただ湿りだけを袖へ受けて進んだ。

風は何も告げず、それでも余韻は掌の温度として長く残り続けた。

 

 

やがて道は泡へほどけ、屋敷も秋も境目を失った。

それでも足裏へ伝わる微かな冷たさだけが、この旅を書き直す頁となった。

 




屋敷を離れてなお、掌には古い木肌の冷たさが消えずに残っていた。
それは触れた感触というより、季節そのものが皮膚へ継ぎ接がれたような静かな重みだった。


歩みを重ねるたび、背後の景色は泡となってほどけ、境界は白い霞へ溶けていく。
それでも足裏だけは確かな湿度を覚え、記憶は道として身体に刻まれ続けた。


旅の終わりは、いつも景色ではなく温度から訪れる。
名を持たない秋の余韻を袖へ宿したまま、次の夢の断片が漂う方角へ静かに歩き続けた。
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