泡沫紀行   作:みどりのかけら

1617 / 1629
剣火の名が残響のように沈む谷へ、まだ境界の外側に立っていた。
空気は薄く震え、遠い湿度が皮膚の表面を撫でては離れていった。
歩み出す前の沈黙だけが、足裏に重さを持っていた。


地面は乾きと湿りの狭間で揺らぎ、踏み出すことをためらわせる柔らかさを持っていた。
その表面には過去の水が染み込み、時間の層が薄く重なっていた。
その層に触れぬまま、ただ圧の差だけを受け取っていた。


遠くで滝の気配がかすかに揺れ、白いものがまだ形を持たないまま漂っていた。
それは音ではなく、温度のわずかな歪みとして身体に届いていた。
剣火の伝承はまだ名を持たず、谷の奥で眠っているようだった。



1617 剣火の伝承を映す聖瀑

剣火の伝承が湿った風に滲む谷へ、足を踏み入れた。

空は薄い硝子のように揺れ、遠くで水の重い響きが骨に触れた。

 

 

湿地に似た小径は柔らかく沈み、足裏に冷たい圧を返した。

その圧の奥で、誰かの歩みの残響が遅れて追いかけてきた。

 

 

岩肌は火傷のような赤を帯び、指先が触れると微かな熱を残した。

滝の気配はまだ遠く、湿度だけが先に輪郭を持ちはじめていた。

 

 

風は断続的に谷を抜け、肩の布を引き剥がすように圧をかけた。

その度に身体の奥で、剣火の伝承が微かに疼き続けていた。

 

 

足元の石は濡れた記憶を抱え、踏むたびに鈍い冷えを放った。

その冷えに視線を落とし、時間の層を読むように歩いた。

 

 

空気は次第に白く濁り、呼吸の輪郭すら曖昧にほどけていく。

遠方で滝の落下音が、金属を溶かすように長く引き延ばされた。

 

 

谷の奥へ進むほど、光は細く裂けて皮膚を擦過するように走った。

その跡に、見えない火の線がゆっくりと浮かび上がる。

 

 

岩壁に滲む水は刃の形を思わせ、触れれば切れる予感だけが残った。

手を近づけず、その冷たい緊張を長く見つめ続けた。

 

 

滝の音は近づき、胸の奥の空洞を満たすように振動を強めていく。

その振動に合わせ、骨の内側がわずかに共鳴し続けていた。

 

 

やがて視界の端に、白い落下が層を重ねて静かに現れはじめた。

水は火の記憶を帯びるように、赤い光を微かに含んで揺れていた。

 

 

滝壺の縁へと近づき、湿った空気に全身を包み込まれた。

その重さは衣服を通して肌に沈み、思考をゆっくりと遅くしていく。

 

 

水飛沫は刃の粉のように舞い、頬に細かな刺痛を残した。

その奥で、見知らぬ記憶の温度がわずかに揺れている。

 

 

滝の中心には、剣を思わせる縦の裂け目が一瞬だけ浮かび上がった。

そこから流れ落ちる水は、燃え残った火のように白く光っている。

 

 

その裂け目に触れず、ただ距離の圧を受け続けていた。

圧力は胸郭を締め、呼吸を浅く静かに均していった。

 

 

足元の岩は絶えず震え、長い時間が水と共に崩れていく気配を持つ。

その崩壊は音ではなく、肌の内側でゆっくりと感じ取られた。

 

 

剣火の伝承は滝の奥で形を持たずに静かに回転していた。

その回転に巻き込まれぬよう、重心を保ち続けていた。

 

 

やがて風が止み、谷は一瞬だけ無重力のような静寂に沈んだ。

その静寂は耳ではなく、骨の隙間で深く響いていた。

 

 

滝から距離を取りながら、来た道の湿った影を辿った。

背後では剣火の残響が水に溶け、ゆっくりと薄れていった。

 

 

湿った帰路の縁で、滝の白い残光がまだ視界の奥に貼り付いていた。

足元の土は先ほどよりも重く、歩むたびに時間が遅れて追従した。

剣火の気配は背後でほどけながら、細い糸のように引き伸ばされていく。

 

 

衣の内側には冷えた水飛沫の記憶が残り、皮膚の下で微かに震えていた。

それは熱とも冷たさともつかず、呼吸の間隔に合わせて形を変えていた。

谷の湿度がまだ身体に絡みつき、離れることをためらっているようだった。

 

 

岩の隙間から流れる水音は次第に遠ざかり、代わりに静かな圧だけが残った。

その圧は背骨をゆっくりと押し、視線を自然と下方へ導いていく。

振り返るたびに、白い滝は剣の痕跡のように薄れていった。

 




谷を抜けた先には、湿度の薄い空白だけが広がっていた。
身体に残った冷えは徐々にほどけ、骨の奥で静かに沈殿していく。
滝の白い落下は記憶の縁へ退き、輪郭だけを残していた。


歩みの痕跡はすぐに地面へ吸い込まれ、存在の重さが軽くなっていく。
剣火の伝承はもはや形を取らず、風の圧の差としてだけ残っていた。
その微かな差異が、まだ谷と私を緩やかに結びつけていた。


振り返ることはもうなかったが、背後の空気だけがわずかに熱を帯びていた。
それは記憶でも予兆でもなく、ただ通過したものの残温だった。
その温度を持ったまま、次の無名の地平へと歩み続けていった。
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