泡沫紀行   作:みどりのかけら

1621 / 1626
黒曜の塔は、まだ地平の湿度の奥に沈んでいた。
朝とも夜ともつかぬ薄い光が、地表の凹凸を静かに撫でている。
その光は熱を持たず、ただ距離だけを増やしていった。


足を踏み出すたび、地面は柔らかく沈み込み、微かな反発を返す。
その反発は音にならず、足首の内側に遅れて届いた。
歩行という行為だけが、時間の輪郭を保っていた。


遠くに立ち上がる黒い影は、塔というよりも空へ向かう裂け目に見えた。
その裂け目は静かに開閉し、呼吸のような周期を持っている。
その揺らぎへ向けて、ただ足裏の感覚だけを頼りに進んだ。



1621 天へ伸びる祈りの黒曜塔

黒曜の塔を遠望する朝、足裏に湿った灰が沈み、風は薄い硝子のように肌を撫でた。

塔の影は空へ逆さに伸び、その縁を踏みながら歩き出した。重さのない圧が肩に乗るようだった。

湿った風に祈りの気配が混じり、遠い時間の層を撫でた。

 

 

足元の黒い地層は呼吸するように脈打ち、歩くたびに微かな音を返す。

その音は言葉の形を取らず、ただ湿度の濃淡として残った。

足音の余韻が塔へ吸われ、戻ることなく消えていく。

 

 

黒曜の塔へ近づくほど、空気は透明さを失い、淡い重力を帯びていく。

胸の奥で何かが静かに沈降し、歩幅だけが確かに前へ押された。

空気の密度が増し、視界は静かに折り畳まれていく。

 

 

途中、塔の肌に似た岩壁が続き、指先は冷たい結晶の粒を拾う。

それは崩れた時間の断片で、触れるほどに微かな痛みを残した。

結晶の冷たさは記憶の奥へ沈み込むように広がった。

 

 

風は塔の方角から吹き下ろし、耳の奥に遠い共鳴を響かせる。

それは祈りとも残響ともつかず、ただ背中を押す圧だけを持つ。

風の圧は背骨の内側を静かに撫でて通り過ぎる。

 

 

塔の外周をなぞるように歩くと、足元に黒い水溜まりが現れる。

そこには空の色が沈み、見上げる感覚だけが反転して残る。

水面の縁は塔の鼓動と同期して揺らいでいた。

 

 

水面に触れると、指先の輪郭が少しずつ遅れて滲み出した。

その遅延は身体の内側へ広がり、歩行の記憶を曖昧にする。

滲んだ輪郭の中に、歩行の過去が漂っている。

 

 

やがて黒い水は塔の基部へ吸い込まれ、静かな渦を描き始める。

その縁を避けずに進み、足裏で流れの方向を確かめた。

渦の奥には音のない呼び声のような圧が潜む。

 

 

塔の壁面は近づくほどに鏡のような質感を帯び、世界を歪める。

その歪みの中で、自分の影だけが遅れて歩き続けていた。

歪んだ光は過去の歩行を別の形で映し出す。

 

 

塔の中腹に差しかかると、空気は薄い膜のように張り詰める。

呼吸のたびにその膜が震え、身体の輪郭が削られていく感覚がある。

張り詰めた膜は音の代わりに沈黙を返してくる。

 

 

足元から微かな音が湧き上がり、塔そのものが記憶を持つように感じる。

その記憶は重くも軽くもなく、ただ歩行の軌跡に絡みついてくる。

塔の記憶は私の歩行を少しずつ書き換えていく。

 

 

風が一瞬止むたびに、塔の輪郭が空へと溶け出すように見える。

その境界は曖昧で、現実と夢の区別を拒んでいるようだった。

溶ける輪郭の先に、まだ名もない空間が揺れていた。

 

 

塔の内側から冷たい光が滲み、皮膚の奥へ静かに入り込む。

それは痛みではなく、存在の輪郭を確かめるような圧だった。

冷たい光は皮膚の奥で微細な振動へ変わっていく。

 

 

頂へ近づくにつれ、足音は次第に自分の内側へ吸い込まれていく。

外界との距離は消え、歩くという行為だけが残響のように残る。

残響は内側の歩行を静かに引き延ばしていった。

 

 

塔の最上層は風そのもののように薄く、視界が白くほどけている。

そこで立ち止まり、重力の向きがわずかに反転するのを感じた。

白くほどける視界の奥で、重力はゆっくり揺らぐ。

 

 

黒曜の頂には何も残らず、ただ透明な圧だけが空へと向かっていた。

その圧は祈りの形をしているが、名付けることはできなかった。

透明な圧は祈りの形を崩しながら空へ拡散する。

 

 

帰路もまた同じ黒い地層を踏みながら、塔の余韻が背に残る。

振り返るたび、黒曜の塔はまだ呼吸しているように揺れていた。

揺れる塔の背後に、歩いてきた影だけが残っていた。

 




背後に残った黒曜の塔は、輪郭を保ちながらも徐々に薄れていく。
その薄れ方は消失ではなく、世界へ溶け戻る現象に近かった。
視界の端で、影だけが遅れて崩れていく。


足元の地層はすでに別の質感へ変わり、軽い砂のように流動している。
歩くたびに過去の圧が微かに浮かび上がり、すぐに散っていく。
その散逸は静かで、何も失われていないように錯覚させる。


振り返ると、塔のあった場所には空の重さだけが残されていた。
そこに立つことはできず、ただ風の層が幾重にも折り重なっている。
再び前へ向き直り、残響のない歩行を続けた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。