湿りを含んだ風へ掌を差し出し、その冷たさを旅の最初の一頁として受け取る。
足裏へ返る柔らかな感触は大地とも雲とも判別できず、一歩ごとに境界だけが静かに揺れた。
遠くには門にも山にも似た影が霞み、その奥から名を持たない気配が薄く滲み続けている。
その影へ向かって歩き始める。
まだ継ぎ合わされていない夢の断片が、夏の湿度をまといながら、この旅の行く先を静かに待っていた。
雲の縁が折り重なる坂を歩くと、門の影だけが先に立ち上がっていた。
足裏へ返る柔らかな弾みは土ではなく、眠り損ねた空の層のようであった。
肩へ触れる湿り気は夏の温度を帯びながら、遠い夢の継ぎ目をなぞっていく。
門柱に似た黒い輪郭は近づくほど透け、指先を差し出すと冷えだけが薄く残った。
形を失った石肌の感触は、水面へ触れた掌の記憶と静かに重なった。
雲間から落ちる光は白ではなく、淡い青灰を含み、まぶたの裏までゆっくり染めていく。
呼吸を深くすると胸骨の奥で軽い圧が返り、見えない階段を踏み外しかけたような揺れが宿る。
道の脇には裂けた夢の断片が花びらのように散り、踏まずとも足首へ柔らかな重さをまとわせた。
それらは形を変え続け、どの欠片も別の季節を隠している気配だけを残した。
風は谷からではなく門影の内側から流れ、額へ細かな冷気を押し当てる。
汗は乾かず、肌の表面で静かな膜となり、遠い残響を受け止める器へ変わっていく。
雲は幾重にも縫い合わされ、その縫い目から淡い滴が垂れていた。
滴は手首へ触れるたび温度だけを置き去りにし、形のない余韻を袖へ染み込ませた。
歩幅を狭めると道も呼応するように縮み、広げると霞の向こうまで細く伸びた。
私の膝は見えない重力へ導かれ、静かな疲れを音もなく抱え続ける。
門をくぐったはずなのに影だけが外へ残り、私だけが内側へ薄く滲んでいた。
背中へ当たる空気は布より柔らかく、それでも確かな重みで姿勢を支えてくれる。
遠くの岩肌には古い足跡のような窪みが続き、その縁だけが淡く温かかった。
誰かを示すものではなく、通り過ぎた季節の体温がまだ離れきらないだけに思えた。
雲上の平地では風圧が足首を包み、踏み出すたび身体の輪郭が少しずつ曖昧になる。
指を握ると骨の存在だけが確かで、その周囲は薄い光へ溶け始めていた。
夢の断片は互いに継ぎ接がれ、継ぎ目から微かな湿りを滲ませる。
そこへ掌を重ねると冷たさとぬくもりが同時に伝わり、どちらも名を持たない感触として残る。
空には天梯のような白い筋が現れ、昇るでも降りるでもなく静止していた。
見上げ続ける首筋へ柔らかな張りが宿り、その痛みだけが時間を測っていた。
足元の苔は水を含んだ布のようで、体重を預けるたび静かな反発を返した。
その弾みは胸の奥へ届き、忘れかけた景色を言葉にならない気配へ編み替える。
霧は突然濃くなり、腕へ細かな粒をまとわせた。
皮膚の境目が曖昧になるほど包まれると、旅路そのものが身体の内側を歩き始める。
影は一枚ではなく幾層にも重なり、それぞれ違う夢を縫い合わせた布に似ていた。
その縁を踏まぬよう慎重に進み、足裏へ伝わる冷えで道筋を確かめ続けた。
やがて門影は振り返っても見えず、ただ肩へ残る軽い圧だけが境界を示していた。
夏の湿度は薄い膜となって背を離れず、歩くたび新しい断片を静かに縫い足していく。
雲はなお高く重なり、天梯は届かない近さで空を支えていた。
その下を歩き続け、触れた風や冷えや重さだけを旅の頁へ折り重ね、継ぎ接がれた夢の断片として胸の奥へ静かにしまった。
門影はいつしか振り返る場所から消え、それでも肩へ残る冷たい重みだけは薄れなかった。
歩いてきた道は雲へ溶け、足跡の形さえ静かな霞へ編み直されていく。
胸の奥には拾い集めた断片が触れ合い、欠けたままの輪郭で穏やかな温度を保っていた。
その継ぎ目を風がなぞるたび、言葉にならない余韻だけが静かに満ちていく。
旅は終わりを示さず、次の境界へ細く続いている。
残された湿りと光の重さを胸へしまい、新たな門影が雲の向こうに滲む気配だけを携えて歩き続けた。