泡沫紀行   作:みどりのかけら

1626 / 1629
夜明けより少し前、世界はまだ形を決めきれず、輪郭だけを淡く浮かべていた。
湿りを含んだ風へ掌を差し出し、その冷たさを旅の最初の一頁として受け取る。


足裏へ返る柔らかな感触は大地とも雲とも判別できず、一歩ごとに境界だけが静かに揺れた。
遠くには門にも山にも似た影が霞み、その奥から名を持たない気配が薄く滲み続けている。


その影へ向かって歩き始める。
まだ継ぎ合わされていない夢の断片が、夏の湿度をまといながら、この旅の行く先を静かに待っていた。



1626 天梯へ続く雲上の門影

雲の縁が折り重なる坂を歩くと、門の影だけが先に立ち上がっていた。

足裏へ返る柔らかな弾みは土ではなく、眠り損ねた空の層のようであった。

肩へ触れる湿り気は夏の温度を帯びながら、遠い夢の継ぎ目をなぞっていく。

 

 

門柱に似た黒い輪郭は近づくほど透け、指先を差し出すと冷えだけが薄く残った。

形を失った石肌の感触は、水面へ触れた掌の記憶と静かに重なった。

 

 

雲間から落ちる光は白ではなく、淡い青灰を含み、まぶたの裏までゆっくり染めていく。

呼吸を深くすると胸骨の奥で軽い圧が返り、見えない階段を踏み外しかけたような揺れが宿る。

 

 

道の脇には裂けた夢の断片が花びらのように散り、踏まずとも足首へ柔らかな重さをまとわせた。

それらは形を変え続け、どの欠片も別の季節を隠している気配だけを残した。

 

 

風は谷からではなく門影の内側から流れ、額へ細かな冷気を押し当てる。

汗は乾かず、肌の表面で静かな膜となり、遠い残響を受け止める器へ変わっていく。

 

 

雲は幾重にも縫い合わされ、その縫い目から淡い滴が垂れていた。

滴は手首へ触れるたび温度だけを置き去りにし、形のない余韻を袖へ染み込ませた。

 

 

歩幅を狭めると道も呼応するように縮み、広げると霞の向こうまで細く伸びた。

私の膝は見えない重力へ導かれ、静かな疲れを音もなく抱え続ける。

 

 

門をくぐったはずなのに影だけが外へ残り、私だけが内側へ薄く滲んでいた。

背中へ当たる空気は布より柔らかく、それでも確かな重みで姿勢を支えてくれる。

 

 

遠くの岩肌には古い足跡のような窪みが続き、その縁だけが淡く温かかった。

誰かを示すものではなく、通り過ぎた季節の体温がまだ離れきらないだけに思えた。

 

 

雲上の平地では風圧が足首を包み、踏み出すたび身体の輪郭が少しずつ曖昧になる。

指を握ると骨の存在だけが確かで、その周囲は薄い光へ溶け始めていた。

 

 

夢の断片は互いに継ぎ接がれ、継ぎ目から微かな湿りを滲ませる。

そこへ掌を重ねると冷たさとぬくもりが同時に伝わり、どちらも名を持たない感触として残る。

 

 

空には天梯のような白い筋が現れ、昇るでも降りるでもなく静止していた。

見上げ続ける首筋へ柔らかな張りが宿り、その痛みだけが時間を測っていた。

 

 

足元の苔は水を含んだ布のようで、体重を預けるたび静かな反発を返した。

その弾みは胸の奥へ届き、忘れかけた景色を言葉にならない気配へ編み替える。

 

 

霧は突然濃くなり、腕へ細かな粒をまとわせた。

皮膚の境目が曖昧になるほど包まれると、旅路そのものが身体の内側を歩き始める。

 

 

影は一枚ではなく幾層にも重なり、それぞれ違う夢を縫い合わせた布に似ていた。

その縁を踏まぬよう慎重に進み、足裏へ伝わる冷えで道筋を確かめ続けた。

 

 

やがて門影は振り返っても見えず、ただ肩へ残る軽い圧だけが境界を示していた。

夏の湿度は薄い膜となって背を離れず、歩くたび新しい断片を静かに縫い足していく。

 

 

雲はなお高く重なり、天梯は届かない近さで空を支えていた。

その下を歩き続け、触れた風や冷えや重さだけを旅の頁へ折り重ね、継ぎ接がれた夢の断片として胸の奥へ静かにしまった。

 




門影はいつしか振り返る場所から消え、それでも肩へ残る冷たい重みだけは薄れなかった。
歩いてきた道は雲へ溶け、足跡の形さえ静かな霞へ編み直されていく。


胸の奥には拾い集めた断片が触れ合い、欠けたままの輪郭で穏やかな温度を保っていた。
その継ぎ目を風がなぞるたび、言葉にならない余韻だけが静かに満ちていく。


旅は終わりを示さず、次の境界へ細く続いている。
残された湿りと光の重さを胸へしまい、新たな門影が雲の向こうに滲む気配だけを携えて歩き続けた。
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