泡沫紀行   作:みどりのかけら

1628 / 1630
旅を続けるうち、地図には残らない森の噂が靴底へ絡みつくようになった。
風は進む先ではなく歩いてきた道から流れ、私の影だけを静かに追い越していく。


秋は色ではなく重さとして枝先へ積もり、空気は眠りを抱えた布のようにたわんでいた。
そのたび足裏はわずかな沈みを覚え、まだ姿を持たぬ夢の輪郭が地面から伝わってきた。


やがて木立の向こうに、森自身が抱え続けた舞台の気配が淡く浮かび上がる。
息を浅く整え、誰にも踏み継がれていない静寂へ、ひとつずつ歩幅を預けた。



1628 幻劇が目覚める森の舞台

森へ踏み入るたび、足裏の土は薄い幕のようにたわんだ。

踏み返す重みが遅れて戻り、眠る舞台へ招かれている気配だけが残った。

 

 

梢のあいだから淡い秋色がほどけ、葉脈は古い筋書きを抱えて揺れた。

肩へ落ちた一枚の葉は、乾いた温度より深い余韻を皮膚へ置いていく。

 

 

開けた空間には円く磨かれた床があり、苔は縁を縫うように広がっていた。

踏み込むと足首まで静けさが満ち、空気そのものが幕を持ち上げた。

 

 

風は正面からではなく、背後の影を押し出すように流れた。

首筋へ触れた冷えが、継ぎ接がれた夢の縫い目をなぞっていく。

 

 

樹皮へ指先を当てると細かな震えが返り、誰とも知れぬ残響が湿度へ溶けた。

言葉ではなく、長く保たれた間だけが森を満たしていた。

 

 

落葉は重ならず、見えない歩幅を避けるように散っていた。

その隙間へ靴底を沈めるたび、身体の輪郭が少しずつ薄れていく。

 

 

舞台らしき広がりの中央には浅い窪みがあり、露が静かに集まっていた。

掌をかざすだけで冷気が脈を包み、遠い幻劇の息遣いを映していた。

 

 

枝先は互いへ触れず、それでも影だけを結び合わせていた。

胸へ落ちる薄暗さは重石より柔らかく、歩みを深いところへ導いた。

 

 

湿った苔へ膝を預けると、衣越しにゆるやかな冷えが染み広がった。

その感触は忘れた景色ではなく、まだ生まれていない記憶に近かった。

 

 

森の奥から淡い光が滲み、輪郭だけが幾重にも重なった。

近づくほど距離は伸び、呼吸は細い糸となって漂う。

 

 

袖を払う風圧は軽いのに、肩には見えない幕布の重さが宿った。

立ち尽くす足元で土が柔らかく波打ち、静寂は深く息づいた。

 

 

倒れた幹には細い裂け目があり、そこから淡金の霧が滲んでいた。

指を近づけるだけで温度が裏返り、夢の断片が肌理へ縫い込まれる。

 

 

影は私より半歩遅れて歩き、落葉の海を静かに渡った。

追いつこうとするたび、踵へ柔らかな抵抗が絡みついた。

 

 

空には雲より薄い幕が幾枚も重なり、森全体が息を潜めていた。

その圧が額へ触れるたび、胸の奥で季節が静かに折り畳まれた。

 

 

乾いた枝を越えると、床面は鏡のような湿りへ変わった。

映る姿は私ではなく、歩幅だけを残した淡い気配で揺れていた。

 

 

指先へ降りた露は冷たさより軽く、やがて温度だけを置いて消えた。

掌には何も残らないのに、重さだけがゆっくり増していく。

 

 

森は目覚めるのでなく、長い眠りの形を少し変え続けていた。

その変化へ足を合わせ、呼吸を崩さぬよう歩き続けた。

 

 

舞台の縁へ戻るころ、風は幕を閉じる代わりに葉を浮かせた。

散りゆく色は終わりではなく、次の夢へ継がれる縫い糸となった。

 

 

振り返っても道はなく、湿度だけが私の背を静かに押していた。

残響は耳ではなく骨の深いところで淡く揺れ続けた。

 

 

森を離れてなお靴底には柔らかな土の温度が宿っていた。

泡沫の世界は足跡を消しながら、幻劇だけを目覚めたまま抱いていた。

 




森を抜けても、肩へ触れた冷気だけは旅の衣から離れなかった。
歩くたびにその温度は静かに揺れ、見えない幕が背後で閉じ続けているようだった。


夢は目覚めたのではなく、私の内側へ居場所を移しただけだったのかもしれない。
靴底に残る柔らかな土の感触は、新しい道へ触れるたび、かすかな残響となって滲んでいく。


泡沫の世界には終着などなく、継ぎ接がれた断片だけが季節を渡り歩いている。
その欠片を拾い集めることもせず、ただ次の静かな風景へ向かって歩き続けた。
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