足裏には未だ海の湿りは届かず、風だけが先に潮の匂いを運んでくる。
その匂いは記憶の形を持たず、ただ身体の奥へ沈み込んでいった。
地面は硬く、踏むたびに微かな反発を返した。
だがその反発の奥には、薄い水の層が眠っているような気配があった。
それを確かめる術を持たぬまま、ただ歩幅を重ねていく。
空は浅く広がり、光はまだ白さを帯びきらないまま滲んでいた。
境界のない遠さが、これから向かう場所の輪郭を曖昧にしている。
その曖昧さだけが、私の旅路を静かに引いていた。
足もとへ広がる白い砂は、踏むたびに泡を含んだ記憶のように沈み、すぐに形を忘れた。
潮の匂いは甘さを帯び、遠い空の裏側から滲み出した季節を肌へ重ねてきた。
波は寄せるたびに輪郭を継ぎ接ぎし、ひとつとして同じ浜辺を残さない。
足首へ触れた冷たさが、歩幅より先に旅の続きを決めていた。
風は砂粒を低く運び、脛へ細かな痛みを散らした。
その痛みは傷にならず、眠っていた夢の端だけを目覚めさせる。
白砂の下には薄い硝子のような層があり、踏み込むたび鈍い震えを返した。
耳ではなく胸骨の奥へ届く響きが、終章という名を持たぬ終わりを撫でていく。
寄せ返す水際には、誰かが立ち去ったような温度差だけが残っていた。
気配は泡となって砕け、私の影へ静かに溶け込む。
陽は高いままなのに、肩へ落ちる光だけが夕暮れの重さを含んでいた。
汗は乾ききらず、塩の薄膜が皮膚をやさしく締めつける。
砂丘めいた起伏を越えると、白さは急に青みを宿した。
足裏へ伝わる柔らかな沈み込みが、空より深い海を思わせる。
漂う飛沫は霧でも雨でもなく、夢が細かく砕けた粒子のようだった。
まぶたへ触れた冷えが、閉じた景色をゆっくり縫い合わせる。
潮だまりは空を映さず、歩いてきた時間だけを淡く揺らしていた。
指先を浸すと輪が広がり、ほどけた記憶が水面の裏へ吸われる。
遠くで砕ける波は声ではなく、幾重もの余韻だけを運んでくる。
その重なりは胸の内側へ静かに積もり、呼吸の深さを少し変えた。
砂は熱を抱えながらも、掌へ返す温度は驚くほど穏やかだった。
触れているあいだだけ、自分の境界が白く曖昧になる。
風向きが変わると、見えない足跡の列が浮かび、すぐに崩れた。
残響だけが浜を横切り、私の背中へ薄い涼しさを置いていく。
空は浅い器のように傾き、光が潮へ少しずつ零れ落ちた。
膝まで満ちた冷気が、歩き疲れた筋へ静かな重みを預ける。
波打ち際には貝殻によく似た夢片が埋まり、拾うたび形を変えた。
掌の湿りだけが本物として残り、そのほかは泡へ戻ってしまう。
白砂は歩いた距離ではなく、ためらいの数だけ深く沈むらしい。
足を抜くたび細かな抵抗が残り、旅は身体の内側まで続いていた。
海と空の境目では、淡い裂け目がゆっくり閉じたり開いたりしている。
そこから漏れる微かな涼しさが、肩越しの影を少しだけ軽くした。
やがて潮は静まり、白砂へ響いていた見えない鼓動も遠ざかる。
濡れた足でなお歩き続け、継ぎ接がれた夢の断片を胸ではなく足裏へ抱えたまま、終章の向こうへ滲んでいった。
潮の引いた跡には細い筋が幾重にも残り、触れると乾いた冷たさが指腹へ移った。
それらは道ではなく、ほどけきらなかった夢が砂へ縫い留めた縫い目のように続いていた。
風は最後の白さをそっと巻き上げ、頬を撫でる重さだけを置いて過ぎる。
その軽い圧を受けながら歩くと、影は私より半歩だけ先で静かに揺れていた。
振り返った浜辺には足跡はなく、潮の終章だけが淡い光となって広がっていた。
掌へ残る塩の感触を確かめ、その薄い温度を失わぬまま次の泡沫へ歩みを重ねた。
白砂の終端を越えた先では、波音はもはや形を持たず散っていた。
足裏の湿りは薄く残り、歩くたびに消えきらない余韻が滲み出る。
それは旅の終わりではなく、ただ層の一つが剥がれた感触だった。
風は背後からではなく、内側から吹いているように感じられた。
身体の輪郭がわずかに遅れて追従し、世界との距離が変質していく。
その遅れの中にだけ、確かな時間の重さがあった。
振り返っても白砂はすでに遠く、境目は曖昧な光へと溶けていた。
残されていたのは道ではなく、歩いたという事実の薄い層だけである。
それを胸ではなく呼吸に預け、次の無名へと歩き出した。