泡沫紀行   作:みどりのかけら

1641 / 1645
泡のように生まれてはほどける地図を胸へ畳み、名を持たない境界を歩いていた。
足裏へ触れる土は昨日までの世界を忘れ、今日だけの重さを静かに受け渡してくる。
その感触だけを頼りに、まだ継ぎ合わされていない夢の縁へ近づいていく。


風は行き先を示さず、湿度だけが見えない道筋を描いていた。
掌を空へ向けると、冷えた気配が皮膚の内側へ沈み込み、誰かではない何かの余韻が骨の近くでほどける。
言葉になる前の静けさが、旅の始まりをゆっくり押していた。


やがて光は白く薄れ、遠くに波であるはずの揺らぎが輪郭だけを残していた。
そこでは寄せるものより消えるもののほうが深く大地へ触れているようだった。
その果てしない砂の気配へ歩みを重ね、夢の断片が眠る回廊へ足を踏み入れた。



1641 波が消える砂上の無限回廊

砂は浅い眠りを繰り返し、寄せてはほどける波紋だけが道の輪郭を保っていた。

その柔らかな境目へ足を沈め、冷えた粒の重さを脛まで受け止める。

空は薄い貝殻の裏側のように光り、遠さだけが静かに息をしていた。

 

 

潮の名残は水ではなく、透明な重力として踝へまとわりつく。

踏み出すたび足裏の温度が少しずつ奪われ、歩幅だけが細く長く伸びていく。

振り返ると足跡は残らず、夢が先に消えていた。

 

 

波は岸へ届く直前で形を忘れ、白い縁だけを砂へ預ける。

その縁に触れた指先は濡れず、かわりに遠い季節のざらつきを受け取る。

消えることだけがここでは確かな往来だった。

 

 

道はまっすぐ続いているようで、わずかな傾きが無限の回廊を折り畳んでいた。

肩へ流れる風圧を支えながら、その折り目へ身体を滑り込ませる。

歩くほど景色は近づかず、足音だけが薄く軽くほどけた。

 

 

砂の下には継ぎ接がれた夢の断片が眠り、踵へ微かな反発を返してくる。

欠けた記憶は石より柔らかく、雲より重い。

その重みが膝へ静かな揺れを宿した。

 

 

潮の香りに似たものは匂いではなく、皮膚へ沁みる色彩だった。

掌を砂へ伏せると、冷たさの奥から誰かの余韻に似た温度差が滲む。

姿はなく、残響だけが粒の隙間を渡っていく。

 

 

風は私の衣を揺らさず、内側の呼吸だけを浅く整えていく。

胸郭へ触れる見えない圧が、忘れかけた道筋を静かに撫でた。

空気は軽いのに、歩みだけが深く沈んでいった。

 

 

淡い光は影を生まず、そのかわり足首へ青い冷えを結びつける。

立ち止まり、砂が脈打つ速さへ耳ではない感覚を重ねた。

そこには言葉にならない気配だけが満ちていた。

 

 

回廊の壁は存在せず、水平線だけが幾重にも折れ曲がる。

一歩ごとに景色は閉じ、次の一歩でまた静かに開く。

その呼吸へ身体の重さを預け続けた。

 

 

遠くで砕ける波は音を失い、白い震えだけを空へ放っている。

その震えが肩甲骨へ届くころには、私の影は砂粒ほどの薄さになっていた。

輪郭だけが旅を覚えている。

 

 

砂は乾いた場所ほど冷たく、湿る場所ほど軽い。

足裏はその逆転を確かめるたび、現実によく似た別の理を踏みしめる。

理由を探さず、感触だけを携えて進んだ。

 

 

かすかな窪みには透明な空が溜まり、覗き込むたび深さが入れ替わる。

指先を差し入れると、水ではない静寂が爪先を包む。

引き抜いた手には何も残らず、重さだけが増えていた。

 

 

どこかを通り過ぎた気配は、風向きのわずかな癖として残る。

その癖が頬を撫でるたび、まだ名づけられていない記憶が皮膚へ浮かぶ。

触れずに受け入れる術だけを覚えていく。

 

 

陽の色は夏に近いのに、体温は薄い朝へ戻される。

腕へ落ちる光は柔らかく、骨の内側だけを静かに冷やした。

時間まで砂へ沈み込んでいるようだった。

 

 

回廊は終わりを示さず、波だけが繰り返し入口を消していく。

消えた境界へ足を置き、確かさのない硬さを踏む。

そのたび夢の継ぎ目が少しだけ滑らかになった。

 

 

砂粒は互いを支えず、それでも崩れない均衡を抱えていた。

掌へ集めればすぐ零れるのに、離れた途端ひとつの地平へ戻っていく。

私もまたその均衡へ重さを預けた。

 

 

夕映えに似た淡色が空を薄く染めても、影はなお生まれない。

身体だけが長い余熱となり、歩幅の後ろへ静かに残っていく。

波はその余熱を受け取り、何も告げず消した。

 

 

やがて道は砂ではなく、夢を磨き続けた粒子だけでできていると知る。

最後の一歩を置き、足裏へ返る微かな震えを確かめる。

振り返れば無限回廊は跡形もなくほどけ、胸の内側にだけ乾いた潮風が残っていた。

 




回廊を離れても、砂は足裏の奥で静かに続いていた。
乾いた粒の冷たさは身体から抜け落ちず、歩くたび胸のどこかで波だけが消え続ける。
旅は景色ではなく触感として積み重なるものらしかった。


振り返る先には道も境界も残らず、夢を継ぎ接いだ痕跡だけが風圧の薄さとなって漂っていた。
掌を開けば何もない空気が触れ、それでも確かな重みが指先へ宿る。
持ち帰れるものは形ではなく、失われ方だけだった。


再び泡沫の世界を歩き始める。
次に辿り着く土地にも、まだ名づけられていない夢の欠片が静かに埋もれているのだろう。
その気配を踏みしめながら、終わりのない旅路はまた新しい一頁をひらいていく。
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