泡沫紀行   作:みどりのかけら

1644 / 1657
夏はいつも、形より先に湿度として旅路へ降りてくる。
足裏へ滲む柔らかな熱を辿りながら、継ぎ接がれた夢の断片が漂う地平を歩いていた。


空は淡い膜を幾重にも重ね、その隙間から黒い水音だけがまだ姿を持たずに滲んでいた。
遠くで眠る雷の気配は、風より重く、それでいて胸の内側へ静かに沈んでいく。


この世界では滝は水を落とすだけではない。
誰にも拾われなかった夢を縫い合わせ、ほどけた記憶を泡のように抱えながら流れ続けるものだと、湿った空気だけが私へ告げていた。



1644 雷鳴を鎮める黒曜の飛瀑

薄い夏の膜を踏み分けるたび、足裏へ泡立つ地面が遅れて脈を返した。

旅の始まりは地図よりも湿度に近く、その濃淡だけを頼りに歩いた。

 

 

谷の奥から黒い光沢がほどけ、滝であるはずのものが空を支えていた。

飛び散る雫は落ちるより先に影となり、額へ静かな重みを残した。

 

 

その飛瀑は黒曜の肌を幾重にも重ね、雷鳴を内側へ折り畳んでいた。

轟きは耳へ届かず、胸骨の裏だけを細く震わせ続けた。

 

 

近づくほど風圧は柔らかくなり、押される感覚だけが深く沈んだ。

指先へ触れた飛沫は冷たさより密度をまとい、皮膚の境目を曖昧にした。

 

 

岸辺には乾ききらない足跡めいた窪みが続いていた。

そこには誰かを示す形ではなく、去った温度だけが薄く宿っていた。

 

 

岩肌へ掌を置くと、長い眠りを継ぎ接いだ夢の継ぎ目が脈打った。

その拍は私の鼓動よりわずかに遅れ、歩幅まで静かに書き換えた。

 

 

空には雲でなく淡い裂片が浮かび、互いを縫うように流れていた。

見上げる首筋へ湿気がまとわりつき、重力が柔らかな布へ変わった。

 

 

滝壺は底を隠さず、それでも深さだけを拒んでいた。

足首まで浸ると冷気は沈まず、骨の内側へ透明な重石を置いた。

 

 

雷は鳴らず、ただ黒曜の流れの中で丸く磨耗していた。

ときおり微かな閃きが水面を撫で、まぶたの裏へ遅い白を残した。

 

 

風が向きを変えるたび、言葉に似た気配が衣の端を持ち上げた。

振り返っても残響だけが薄く伸び、空気の継ぎ目へ溶けていく。

 

 

濡れた土は柔らかく、それでいて踵を容易には受け入れなかった。

踏み込むたび足裏へ返る抵抗が、旅の長さを静かに測っていた。

 

 

崩れた岩には細い光が縫い込まれ、夢の断片のように瞬いていた。

触れると硬さより温度差が指腹へ移り、輪郭だけがゆっくりほどけた。

 

 

飛瀑の黒は闇ではなく、数え切れない朝を吸い込んだ色だった。

その近くでは息が浅くなり、肺の内側まで湿り気が満ちていく。

 

 

谷を渡る霧は泡沫の世界そのものを折り重ね、遠景を淡く継いでいた。

境界を越えるたび、肩へ触れる空気の重さだけで場所を知った。

 

 

細かな雫は髪を伝い、首筋へ静かな線を描き続けた。

冷えは痛みにならず、歩く意思だけをゆるやかに磨き上げていく。

 

 

岩陰には乾いた残香が潜み、誰かの余韻より古い時間を滲ませた。

その気配は形を持たず、滝の呼吸へ溶け込む波紋となった。

 

 

やがて飛瀑の奥で閉じ込められていた雷鳴が、ひとしずくずつ静まっていった。

世界は音を失うのでなく、圧だけを柔らかな層へ沈めていった。

 

 

歩みを進めると背中の湿布のような冷気が少しずつ離れた。

それでも肩甲骨のあたりには黒曜の重みが薄く残り、旅路を支えていた。

 

 

振り返る先で滝はなお落ち続け、夢の断片を絶えず継ぎ合わせていた。

その縫い目を胸の奥へ静かに抱え、夏の泡立つ道をさらに歩いた。

 




黒曜の飛瀑を離れても、肩へ触れた冷気は歩幅の奥で静かに揺れ続けた。
鎮められた雷鳴は世界から消えたのではなく、私の内側へ小さな重さとして宿ったようだった。


旅は景色を集めるものではなく、触れた圧や湿度を身体へ積み重ねる営みなのだと、足裏のぬくもりがゆっくり形を結んでいく。
継ぎ接がれた夢の断片は、もう谷だけに残されてはいなかった。


やがて夏は次の風景へ薄くほどけ、泡沫の地平は新たな気配を滲ませ始める。
胸奥に残る黒曜の静けさを携え、まだ名を持たない道へ向かって歩き続けた。
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