泡沫紀行   作:みどりのかけら

1652 / 1668
霧はまだ地表に触れる前の夢の層だった。
その薄い重なりの上を歩き続ける。
足裏に伝わる湿度は、始まりとも終わりともつかない揺らぎを帯びていた。


遠い天嶺の輪郭が、折れた紙の端のように揺れている。
そこに向かう道は描かれていない。
ただ歩くことでのみ補完される空白が広がっていた。


石動の名残が風の中でほどけていく。
崩れた記憶は地形に沈み、まだ温度だけを保っている。
その温度に導かれるように足を進めた。



1652 天嶺に封じられた白炎の砦

旅は薄い白霧の層を踏み分けて続く。

足裏に沈む湿りは地の呼吸のようだ。

天嶺の影が遠くで裂けて見える。

霧の奥で何かがほどける気配がある。

 

 

石を含んだ風が肌を擦過していく。

呼吸の奥で冷えた匂いが遅れて立つ。

その遅延に歩幅を合わせる。

冷えは骨の内側へ遅れて届く。

 

 

崩れた山城の痕が霧の下に潜む。

石は階段の記憶だけを残していた。

触れれば崩れるほどの脆さが漂う。

踏むたびに瓦礫は眠りを返す。

 

 

白炎と呼ばれる現象が天嶺に滞留する。

熱は光より遅く私の皮膚へ染みる。

焼けない温度だけが輪郭を持つ。

光は炎の形を借りて漂うだけだ。

 

 

歩きながら時間の傾きを測る。

足音は吸い込まれ音にならず消える。

それでも地は確かに応答していた。

歩行そのものが記録へ変換される。

 

 

谷の裂け目から湿った風が噴き上がる。

その流れは記憶の継ぎ目のように重い。

そこにしばし身を預ける。

湿度が衣の内側に重なっていく。

 

 

砦の外郭は半ば雲に溶けていた。

輪郭は保存されず温度だけが残る。

見えない壁が歩みを押し返す。

境界は視界の端で折れ曲がる。

 

 

掌を伸ばすと石の冷えが跳ね返る。

冷たさは過去の密度を孕んでいた。

その密度に指を沈める。

冷気は記憶の裂け目をなぞる。

 

 

天嶺の上空は白炎で満ちている。

それは燃えずに空間だけを歪める。

視界は薄く溶けて遠近を失う。

空の圧がゆっくりと降下してくる。

 

 

足場は崩壊と再生の間で揺れている。

その不安定さを歩行で縫う。

縫い目から微かな光が漏れ出す。

不安定さは足裏で脈打っている。

 

 

石動く山の名残が岩肌に刻まれる。

名は声を持たず湿度として残る。

その湿りを辿り上へ向かう。

 

 

風圧が背を押し沈黙を厚くする。

言葉なき圧力が呼吸を整列させる。

ただ進む以外を知らない。

 

 

白炎の中心に砦の核が沈んでいる。

そこは熱と冷の境界が剥離する場だ。

触れる前に手が揺らいでいる。

 

 

地面は柔らかくも鋭い記憶でできる。

歩くたびに過去が微細に軋む。

その音なき悲鳴を聴く。

 

 

霧は私の輪郭を遅れて追い越す。

存在が後から追記される感覚だ。

それを受け入れて進む。

 

 

砦内部には風の通路だけが残る。

空洞は形よりも深さで語る。

深さに足を落とさぬよう歩く。

 

 

白炎は触れずとも肌を焦がす。

焦げ跡は透明で痛みだけが残る。

痛みを地図として読む。

 

 

天嶺の頂はまだ遠く揺れている。

距離は折り畳まれ伸び縮みする。

その揺らぎに身を任せる。

 

 

崩城の最後の気配が背後で沈む。

振り返らずとも消失は確かにある。

白炎の中へ歩みを続ける。

 

 

白炎の縁で空気の層が静かに剥がれる。

剥がれた空気は霧となり足元へ沈む。

その沈降に合わせて呼吸を浅くする。

遠い地鳴りだけが一定の間隔で続いている。

 

 

砦の核から細い光が地面へ流れ落ちる。

光は石の隙間を選び記憶の底へ潜る。

その軌跡を目で追いながら歩く。

足元の冷えが少しずつ形を持ちはじめる。

 

 

天嶺の頂から白い風がゆっくり降りてくる。

風は霧を押し分け私の肩を越えていく。

その向こうで崩城の影が一瞬だけ立ち上がる。

影が消えたあとも歩みだけは残り続ける。

 




白炎は消えたのではなく、密度を変えて残っている。
それは光でも熱でもなく、空間の癖のようなものだ。
その癖を身体の奥に持ち帰っている。


天嶺の頂は、いまや歩行の外側にある。
距離は均され、始まりと終わりの区別は曖昧になった。
ただ地面だけが確かに私を支えていた。


砦の痕跡は風の層に溶け、名前を失っている。
それでもそこに在った重さを知っている。
歩き続ける限り、その重さは消えないままだ。
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