泡沫紀行   作:みどりのかけら

1654 / 1670
薄い朝の層が、まだ名前を持たない地面の上に滞留する。
その層を踏み分けながら、歩幅の起点を確かめる。
湿った空気が喉の奥に沈み、言葉にならない重さを残す。


遠くの地形は未だ固まらず、揺らいだ輪郭だけを見せている。
足元の草は冷えを抱え込み、触れるたびに微細な抵抗を返す。
その抵抗は地の記憶のように、静かに繰り返される。


進む先には段差の気配だけが積み重なり、道の名はまだ生まれない。
その未定形の傾斜へ、呼吸を浅くして向かう。
空気の密度がわずかに変わり、旅の始まりだけが確かになる。



1654 星穂の天梯田

星穂の天梯田へ、靴音だけを頼りに進む。

秋の湿った風が肌の縫い目に薄く染み込む。

 

 

遠くの稜線は揺れ、境界が水面のように歪む。

足裏には泥と草の層が重なり、時間が沈む。

湿った空の層が低く垂れ、視界を柔らかく押し潰す。

 

 

千枚の田は空へと折り返され、階段の夢を成す。

そこに機械の痕はなく、ただ湿度だけが記憶する。

 

 

雲の影が田ごとに落ち、冷たい重さを移していく。

その圧に肩を預け、沈黙の段差を踏みしめる。

その圧は胸郭の内側で微かに反響し、歩幅を調律する。

 

 

刈り残された稲は微かに震え、風の輪郭を残す。

視界の端で光がほどけ、秋の匂いが濃くなる。

 

 

水面は鏡ではなく、深い呼吸のように揺れている。

その揺れに足を浸し、冷えを骨へと通す。

 

 

星穂と呼ばれる粒が田に散り、夜の種子のようだ。

それは収穫でも記憶でもなく、未完の沈黙である。

 

 

遠くで風が折れ、谷が一瞬だけ息を止める。

その静止の中心を、歩幅で確かめ続ける。

その瞬間、田の奥行きが呼吸の間隔へと変換される。

 

 

田の縁に残る温度差が、見えない誰かを示す。

しかし形は結ばれず、ただ湿りだけが続く。

 

 

空は低く垂れ、肩に透明な重みを預けてくる。

それを払いのけず、歩行の速度を落とす。

 

 

水際で足が沈み、境界が曖昧にほどけていく。

その曖昧さの中に、薄い記憶の層が混ざる。

冷えはやがて輪郭を持たず、ただ流動する層になる。

 

 

稲の列は途切れず、螺旋のように空へ続く。

上昇する視線に引かれ、呼吸を浅くする。

 

 

冷えた土が踵を通じて、静かに内側へ広がる。

その広がりは痛みではなく、場所の記憶だった。

 

 

霞の中で田は重なり、層として宙に浮かぶ。

その層の間を歩き、呼吸を細く保つ。

浮遊する層の隙間に、失われた重力の記憶が漂う。

 

 

風が通るたび、稲の音が微細に割れていく。

その破片は足元に落ち、再び湿へと戻る。

 

 

星の粒は水面に沈み、光の底を作っている。

その底に触れ、指先の冷たさを確かめる。

 

 

空気の密度が変わり、歩行はやや重くなる。

それでも前進は止まらず、段差は続いている。

 

 

遠景に薄い光の裂け目が現れ、時間が滲む。

その裂け目へ向かい、足音を吸わせる。

裂け目の向こうには、まだ名付けられぬ朝の気配がある。

 

 

田の記憶は重なり合い、声なき層を増やす。

その層は私の影を薄くし、境界を曖昧にする。

 

 

星穂の天梯田は背後で静かに呼吸を続ける。

その呼吸に混ざり、歩行の終わりを知らない。

 

 

裂け目の光が広がり、田の層が裏返る。

胸の奥で空気が薄くなり、歩幅がわずかに乱れる。

それでも足裏は地形を忘れず、次の段差へ沈む。

 

 

星穂は夜へ沈み、田全体が微光を帯びる。

冷えは骨の内側を巡り、静かな輪郭を作る。

風は細くなり、肌の上で糸のようにほどける。

 

 

境界のない水田の上で、終わりの気配を踏む。

背後と前方の区別が溶け、歩行だけが残る。

その歩行は誰のものでもなく、ただ湿度の記憶として続く。

 




裂け目の光は背後で閉じ、田の層は静かに沈黙へ戻る。
歩いてきた感覚だけが、皮膚の内側に残り続ける。
風は細く、記憶の縁をなぞるように通過する。


星穂はすでに遠く、視界の奥で微かな揺れとして漂う。
足裏に残る冷えは、地形の名残としてゆっくり溶けていく。
その溶解を止めず、ただ呼吸の間隔を整える。


歩行は途切れないまま、次の無名の傾斜へと接続される。
背後の景色は薄く重なり、層として静かに閉じる。
それでもまだ歩いており、終わりは形を持たないままでいる。
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