泡沫紀行   作:みどりのかけら

1656 / 1663
泡沫の世界の縁を徒歩で渡り始めた。
秋の湿りは薄い膜のように皮膚へ貼りつく。
水脈の記録を探す旅人としてただ歩き続ける。


遠くに聖堂の影がまだ形を持たないまま揺れていた。
地表には過去の流れだけが痕跡として沈んでいる。
足音は柔らかい層に吸い込まれ、戻ってこない。


風が膝裏を撫で、歩幅の感覚がわずかにずれる。
胸の奥には湿度が溜まり、呼吸は重く伸びる。
指先にはまだ見えない水の冷たさが残響していた。



1656 水脈を統べし創造の聖堂

泡立つ薄い世界の縁を徒歩で渡り続けている。

秋の気配は乾いた灰のように足裏へ沈む。

水脈を統べるという聖堂の影を探していた。

 

 

湿った風が膝裏を撫で、歩行の輪郭が曖昧になる。

土は柔らかく沈み、足音は深い層へ吸い込まれた。

 

 

遠くに立つ水脈統御の聖堂は、霧の中で骨のように白い。

その輪郭は揺らぎ、固定された形を拒んでいた。

 

 

途中の地表には水の記憶だけが残されていた。

触れると冷たさが遅れて指先へ戻ってくる。

 

 

胸郭の内側に湿度が満ち、呼吸が重く伸びる。

風圧は肩を押し、歩幅を微かに歪めていく。

それでも進行を止めない。

 

 

聖堂へ続く道は、折り畳まれた夢の層でできていた。

踏むたびに過去の水音が遅れて浮かび上がる。

 

 

靴底に絡む泥が熱を奪い、感覚だけが過剰に研ぎ澄まされる。

皮膚の奥で微細な震えが連鎖していた。

 

 

水脈統御聖堂の入口は、扉というよりも圧の裂け目だった。

そこから漏れる冷気が時間の流れを反転させる。

 

 

内部は静止した水の層で満ちていた。

音は沈み、代わりに重さが空間を満たす。

 

 

足首まで潜るような湿気があり、歩くたびに抵抗が増す。

水のない水中を進んでいる感覚に包まれる。

 

 

壁面には流れの断面が刻まれ、無数の河筋が結晶化している。

それは流動と停止が同居する奇妙な記録だった。

 

 

触れた指先に、遠い秋の雨が逆流する。

そこに時間の方向性は存在しない。

 

 

背中を伝う冷気が骨の内部へ染み込み、思考を希薄にする。

それでも歩行の律動だけは残っていた。

 

 

聖堂の中心へ近づくほど、水脈は意志を持つように揺れた。

その揺らぎの中に立たされていた。

 

 

床は透明に近く、下層に無数の未発生の流れが見える。

それらは未来の雨のように揺れていた。

 

 

掌を広げると湿度が絡みつき、皮膚の境界が曖昧になる。

自分の輪郭が溶ける感覚を受け入れていた。

 

 

聖堂は水を支配するのではなく、記憶として編み直していた。

その構造は静かな狂気のように整っている。

 

 

出口という概念はここでは薄く、ただ層の転位があるだけだった。

次の層へと滑り落ちていく。

 

 

呼吸は浅くなり、肺の中に冷たい水の幻が残る。

それでも歩行は途切れず、足は前へと運ばれる。

 

 

背後で聖堂は静かに折り畳まれ、夢の断片として沈殿する。

秋の湿った空を再び歩き出す。

 

 

身体の輪郭はまだ水の記憶に濡れたままだ。

聖堂の層を抜けたはずなのに、皮膚の内側だけが遅れて残響している。

歩くたびに足裏から透明な重さが滲み上がる。

 

 

外界は乾きと湿りが同時に呼吸していた。

秋の空気は薄い刃のように頬をかすめ、そこに微細な振動を残す。

地面にはかつての水脈の痕跡が線ではなく面として沈んでいる。

 

 

遠くの低地には、人工の記憶を封じたような層が横たわっていた。

そこでは水の流れが意志ではなく設計の影として留められている。

その沈黙の構造に触れ、指先の温度が僅かに奪われるのを感じる。

 

 

歩行は再び単純な律動へと戻りつつあった。

しかし胸の奥では、聖堂で見た未発生の流れがまだ蠢いている。

それは未来でも過去でもない時間として、静かに脈打っていた。

 

 

やがて地平は曖昧にほどけ、次の湿りへと踏み込む。

足元の土は軽く崩れ、秋の気配が深く沈み込んでいく。

その沈降の中で、再び歩くことだけを選び続けていた。

 




聖堂の層を抜けた後も、身体には水の記憶が残っていた。
秋の空気は乾きと湿りを同時に抱えながら揺れている。
その曖昧な境界の上を再び歩き始める。


背後には折り畳まれた夢の気配だけが沈殿していた。
触れた地面は軽く震え、未発生の流れを示唆する。
時間は一方向を失い、層として重なっていく。


歩行は静かに継続し、意志ではなく律動だけが残る。
風の圧が肩を押し、身体の境界を再び定義し直す。
次の水脈へ向かう無名のままの旅人である。
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