泡沫紀行   作:みどりのかけら

1658 / 1659
霧の層がまだ薄く、歩みの輪郭だけが先に浮かび上がっていた。
境界の手前で地面の湿りを確かめながら、見えない傾斜へ足を差し入れた。
風は遠い果実の気配を含み、舌の奥に微かな甘さを残していく。


足裏に触れる大地は柔らかく沈み、歩くたびに記憶のような反発を返した。
空気は軽い膜となって皮膚に貼りつき、呼吸のたびに層を増していく。
その重なりの中で、まだ名のない果樹の影を追っていた。


光は薄く割れながら枝の方向へ滲み、世界の輪郭を曖昧にしていた。
遠くの温度差がわずかに揺れ、存在の気配だけが道標のように残る。
その揺らぎに従い、沈黙の始まりへと歩を進めた。



1658 黄金果実が実る妖精の楽園

泡沫の境を徒歩で渡り果樹の気配へ入った。

地面は湿った光を吸い込み足裏へ柔らかく返した。

遠くに甘い風圧だけが層をなして揺れていた。

 

 

果樹の森は霧の内側で淡く脈打っていた。

湿度は肌に薄い膜を作り呼吸を遅くする。

その重さを踏みしめながら進んだ。

 

 

黄金色の果実が枝というより光の粒として垂れていた。

触れれば崩れそうな輝きが空気を震わせる。

視線ではなく皮膚でそれを受け取った。

 

 

風は甘い香りとともに舌の裏へ滲み込む。

歩くたびに空間が柔らかく歪む感触があった。

その歪みは遠い記憶の温度に似ていた。

 

 

長い傾斜を登るほど足裏の感覚は薄れていく。

代わりに膝へ静かな重力の波が寄せてきた。

呼吸の間隔だけを頼りに進んだ。

 

 

折れた籠のような痕跡が地面に沈んでいた。

それはかつての収穫の余韻を保持している。

触れると冷たい果汁の記憶が指先に残る。

 

 

見えない存在の気配が温度差として漂う。

それを視ることなく肩で受け止めた。

風景はわずかに私を避けるように揺れた。

 

 

果実は落下の瞬間だけ重さを取り戻していた。

地に触れた音は柔らかな破裂へと変わる。

その響きは土の奥へ静かに吸われていく。

 

 

谷の底には果汁の川が細く流れていた。

足を浸すと甘さが骨へと逆流してくる。

その流れに歩幅を合わせて進んだ。

 

 

果樹の列は迷路のように重なり視界をほどく。

方向感覚は香りの濃淡に溶けていった。

迷うことすら流れとして受け入れた。

 

 

光は果実の表面で微細な粒子に分解されていた。

その粒子が皮膚へ降り積もるように沈む。

光の重さを肩で感じ取っていた。

 

 

足音の代わりに湿った記憶の残響が続いていた。

それは誰のものでもない感情の温度だった。

それに名を与えずただ通過した。

 

 

丘の傾斜は果実の重みでわずかに沈んでいる。

踏むたびに地面が呼吸するように揺れた。

その呼吸の周期に歩調を合わせた。

 

 

空の色は熟した果肉の内側へと近づいていく。

夕暮れは境界を溶かし始めていた。

時間の薄膜を指先でなぞっていた。

 

 

果実の光は音のない波として広がっていた。

その波は胸郭の内側で反響を起こす。

揺れの中心に立ち続けた。

 

 

沈黙は厚くなり空気の層を増やしていた。

呼吸はその層を少しずつ切り開いていく。

静けさの重みを背中で受け止めた。

 

 

樹皮に触れると冷たい脈動が掌へ伝わる。

それは果実の内部と同じリズムを持っていた。

境界のない循環に指を沈めた。

 

 

夜は果樹の間から静かに滲み出してきた。

光は徐々に重力へ変わり地面へ落ちる。

暗さの温度に身を委ねて歩いた。

 

 

果実の輝きはひび割れるように分岐していく。

世界は複数の夢へと同時に枝分かれした。

その間隙に立ち尽くしていた。

 

 

果樹の楽園は崩れかけた夢の層として私の背後で静かに閉じ始め、光の粒が逆流するように漂っていた。

湿った風が皮膚の奥へ沈み込み、遠い甘さの残響だけが歩みを押していた。

足裏に残る湿った果汁の記憶を確かめながら、沈む地面の呼吸に身を預け、境界の曖昧な温度の中を進み続け、果実の香気が骨の内側で静かに反響し続けていた。

薄れゆく果樹の層を背にしながら、分岐する夢の残光に足を取られ、なおも続く湿度の道を歩き去っていった。

 




果樹の光はすでに背後で薄れ、甘い残響だけが空間に沈んでいた。
湿った地面の記憶を踏みしめながら、境界の外側へと抜けていく。
風は冷えを帯び、果実の香りを細く引き伸ばしながら消えていった。


足裏の感触は徐々に乾き、歩みは軽さよりも空白を伴い始める。
見えない余韻が皮膚の内側に残り、振動のように静かに続いていた。
その揺れを抱えたまま、沈黙の層を横切っていく。


背後の楽園はもう形を持たず、光の粒として散り続けていた。
時間は薄く剥がれ、歩くたびに新しい静けさへと更新される。
果実の記憶を遠ざけながら、泡沫の道へと溶けていった。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。