境界のない湿度が肌に触れ、歩き出す理由を静かに奪っていく。
遠くで崩れ続ける光の層が、始まりという概念を曖昧にしていた。
記録のない道を選び、名付けられない回廊の気配へと身体を沈めた。
風は方向を示さず、ただ圧だけを残して背中を押し続ける。
その圧の中に、すでに過ぎ去った歩行の残響が混じっていた。
綿のようにほどけた滝の予兆が、空のどこかで静かに歪んでいる。
虹はまだ形を持たず、湿り気の中で待機しているだけだった。
それを目的ではなく、通過の気配として受け入れていた。
虹霧を望む空縁の回廊へと足を踏み入れた。
湿った風が肌の輪郭をゆっくりと確かめていく。
足裏には泡のような大地の揺らぎが残っていた。
道は綿縁の滝見台へ向けて静かに上昇していた。
呼吸のたびに薄い水気が喉の奥へ滲み込む。
遠い地平は曖昧に溶け、境界だけが濃く残る。
霧は虹色の層を帯びて視界の端を撫でていく。
その光は音を持たず、肌の温度差として沈む。
見ているのではなく、光に触れられていた。
風は回廊の縁で折れ曲がり、身体を押し返す。
その圧は過去の歩行の痕跡を呼び起こすようだった。
一歩ごとに重さの位置を確かめ直す。
足元の石は湿りを含み、微かな記憶を宿していた。
誰かの残響のような熱が表面をかすめる。
それは言葉にならぬ滞留としてそこにあった。
回廊の骨格は細く、空と谷を無理に繋いでいる。
手すりのような境界は風を切り裂きながら揺れる。
その不安定さに身体を預けて進む。
床板は歩くたびに微かに沈み、時間を遅らせる。
その遅延が思考より先に感覚を広げていく。
今という位置を何度も踏み直していた。
滝の音は姿を持たず、圧力だけが下から上がる。
水は見えないが、空気が重く震えている。
その震えが骨の内側まで届いていた。
霧の裂け目に虹の輪郭が断続的に現れる。
それは固定されず、呼吸の速度で変形する。
その変化を追うことをやめなかった。
回廊には他の足音の余白だけが残されている。
存在はすでに薄く、温度差としてだけ感じられる。
その空白をなぞるように歩いた。
壁面に触れると湿りが指先へ逆流する。
その冷たさは過去の水流を想起させる。
記憶の形を持たない記憶に触れていた。
霧は次第に密度を増し、視界を均す。
距離は消え、近さだけが過剰に残る。
方向の感覚を内側で調整する。
歩き続ける足は重さを忘れかけていた。
しかし関節には微細な疲労が沈殿する。
その蓄積が時間の形を示していた。
空と地の境目がゆっくりと反転し始める。
上下の意味が曖昧にほどけていく。
浮遊する歩行の感覚に従う。
虹霧の中心に向かって回廊は細くなる。
視界は一点へ収束しながら広がっている。
矛盾した空間が身体を包み込む。
光は水面のない波として皮膚を滑る。
その波は内部の輪郭をわずかに揺らす。
境界を持たない身体になりかけていた。
回廊の終端は明示されず、ただ薄れていく。
進むほどに足場の確かさは失われる。
それでも歩行は止まらなかった。
霧の奥に空の裂け目が静かに開いている。
そこには落下でも浮上でもない領域がある。
その無重力の縁に立ち尽くす。
やがて回廊は背後へと溶けていった。
残されたのは湿度の記憶だけである。
再び泡沫の道へと歩み出す。
回廊の輪郭は背後でゆっくりと解体され、最初から存在しなかったように沈んでいく。
足元に残るのは歩行の重さではなく、湿度だけが持続する記憶だった。
振り返ることなく、その消失の温度を背中で受け止めていた。
虹霧はすでに形を失い、光はただの圧として空間に滲んでいる。
滝の音は遠ざかるのではなく、内側へと吸い込まれていった。
そこには終わりという区切りではなく、薄い連続だけが続いている。
歩幅は次第に意味を失い、地面との距離だけが静かに揺れていた。
まだ旅の途中にいるのか、それともすでに通過したのか判別できない。
ただ、湿った空気が呼吸のたびに同じ位置へ戻ってくる。