泡沫紀行   作:みどりのかけら

1664 / 1665
薄い空気がまだ名を持たないまま、足元の地面だけが先に私を知っていた。
境界のない湿度が肌に触れ、歩き出す理由を静かに奪っていく。
遠くで崩れ続ける光の層が、始まりという概念を曖昧にしていた。


記録のない道を選び、名付けられない回廊の気配へと身体を沈めた。
風は方向を示さず、ただ圧だけを残して背中を押し続ける。
その圧の中に、すでに過ぎ去った歩行の残響が混じっていた。


綿のようにほどけた滝の予兆が、空のどこかで静かに歪んでいる。
虹はまだ形を持たず、湿り気の中で待機しているだけだった。
それを目的ではなく、通過の気配として受け入れていた。



1664 虹霧を望む空縁の回廊

虹霧を望む空縁の回廊へと足を踏み入れた。

湿った風が肌の輪郭をゆっくりと確かめていく。

足裏には泡のような大地の揺らぎが残っていた。

 

 

道は綿縁の滝見台へ向けて静かに上昇していた。

呼吸のたびに薄い水気が喉の奥へ滲み込む。

遠い地平は曖昧に溶け、境界だけが濃く残る。

 

 

霧は虹色の層を帯びて視界の端を撫でていく。

その光は音を持たず、肌の温度差として沈む。

見ているのではなく、光に触れられていた。

 

 

風は回廊の縁で折れ曲がり、身体を押し返す。

その圧は過去の歩行の痕跡を呼び起こすようだった。

一歩ごとに重さの位置を確かめ直す。

 

 

足元の石は湿りを含み、微かな記憶を宿していた。

誰かの残響のような熱が表面をかすめる。

それは言葉にならぬ滞留としてそこにあった。

 

 

回廊の骨格は細く、空と谷を無理に繋いでいる。

手すりのような境界は風を切り裂きながら揺れる。

その不安定さに身体を預けて進む。

 

 

床板は歩くたびに微かに沈み、時間を遅らせる。

その遅延が思考より先に感覚を広げていく。

今という位置を何度も踏み直していた。

 

 

滝の音は姿を持たず、圧力だけが下から上がる。

水は見えないが、空気が重く震えている。

その震えが骨の内側まで届いていた。

 

 

霧の裂け目に虹の輪郭が断続的に現れる。

それは固定されず、呼吸の速度で変形する。

その変化を追うことをやめなかった。

 

 

回廊には他の足音の余白だけが残されている。

存在はすでに薄く、温度差としてだけ感じられる。

その空白をなぞるように歩いた。

 

 

壁面に触れると湿りが指先へ逆流する。

その冷たさは過去の水流を想起させる。

記憶の形を持たない記憶に触れていた。

 

 

霧は次第に密度を増し、視界を均す。

距離は消え、近さだけが過剰に残る。

方向の感覚を内側で調整する。

 

 

歩き続ける足は重さを忘れかけていた。

しかし関節には微細な疲労が沈殿する。

その蓄積が時間の形を示していた。

 

 

空と地の境目がゆっくりと反転し始める。

上下の意味が曖昧にほどけていく。

浮遊する歩行の感覚に従う。

 

 

虹霧の中心に向かって回廊は細くなる。

視界は一点へ収束しながら広がっている。

矛盾した空間が身体を包み込む。

 

 

光は水面のない波として皮膚を滑る。

その波は内部の輪郭をわずかに揺らす。

境界を持たない身体になりかけていた。

 

 

回廊の終端は明示されず、ただ薄れていく。

進むほどに足場の確かさは失われる。

それでも歩行は止まらなかった。

 

 

霧の奥に空の裂け目が静かに開いている。

そこには落下でも浮上でもない領域がある。

その無重力の縁に立ち尽くす。

 

 

やがて回廊は背後へと溶けていった。

残されたのは湿度の記憶だけである。

再び泡沫の道へと歩み出す。

 




回廊の輪郭は背後でゆっくりと解体され、最初から存在しなかったように沈んでいく。
足元に残るのは歩行の重さではなく、湿度だけが持続する記憶だった。
振り返ることなく、その消失の温度を背中で受け止めていた。


虹霧はすでに形を失い、光はただの圧として空間に滲んでいる。
滝の音は遠ざかるのではなく、内側へと吸い込まれていった。
そこには終わりという区切りではなく、薄い連続だけが続いている。


歩幅は次第に意味を失い、地面との距離だけが静かに揺れていた。
まだ旅の途中にいるのか、それともすでに通過したのか判別できない。
ただ、湿った空気が呼吸のたびに同じ位置へ戻ってくる。
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