泡沫紀行   作:みどりのかけら

1665 / 1667
森の外縁に立つだけで、空気は薄い膜のように肌へまとわりついた。
その膜を押し分けるように歩き出す。
湿度はまだ低く、世界は乾いた記憶の名残を保っている。


足元の土は硬く、踏み込むたびに微かな反発を返した。
その反発は次第に鈍くなり、奥へ進むほど沈黙に近づいていく。
風は枝葉の間を抜けるたび、形を失っていた。


遠くで落ちる水の気配が、空間の奥行きをゆっくり歪めている。
その歪みを視界ではなく皮膚で捉え続けた。
まだ見えぬ滝は、すでに重力だけを先に届かせていた。



1665 銀糸が墜ちる森奥の秘瀑

銀糸のような雨が森の縁を撫で、その下を歩き続ける。

足裏に沈む土は冷え、湿度だけが時間を濃くしていた。

冷えは足元からゆっくりと這い上がる。

 

 

樹々は互いの影を縫い合わせ、境界を曖昧にしている。

枝先から滴る気配が、耳ではなく皮膚に触れた。

湿った葉の重なりが、歩行の音を吸い取っていく。

 

 

名を持たぬ谷の奥で、風は一度だけ方向を失う。

その瞬間、胸の奥に空白の重さが落ちてきた。

気配はさらに薄く広がっていた。

空白は背後から追随し、影よりも遅くまとわりつく。

 

 

苔は岩肌を覆う記憶のように広がり、触れるたびに沈黙を返す。

指先でその冷たさを確かめ、歩幅を狭めた。

苔の冷えが膝へ伝わり、歩行の速度を静かに削る。

 

 

滝の音はまだ遠く、しかし水の圧だけが先に届いている。

空気は薄く震え、呼吸の輪郭が濃くなる。

水圧は内側で脈打ち、骨の奥に小さな波を刻む。

 

 

足首をかすめる水は、思考よりも早く温度を奪う。

それでも進むたび、内側にわずかな光が滲む。

光は足元から遅れて追いかけるように滲んでいた。

 

 

森の奥で、銀の筋が垂直に割れ始める気配があった。

それは光ではなく、重さを持つ流れだった。

気配は枝葉の間で屈折し、方向を何度も失っていた。

 

 

崖に近づき、岩の裂け目に手を置く。

そこには長い時間が冷え固まったような感触があった。

岩の冷気が掌の奥へと染み込み、思考を鈍らせる。

 

 

滝はまだ全貌を見せず、音だけが増幅している。

その振動が骨に沿って細く走る。

振動は滝の像をまだ見せず、予兆だけを増幅させる。

水音の輪郭だけが遠くで増している。

 

 

空気の層が何度も折り重なり、視界は水膜のように揺れる。

その揺らぎに足を預け、前へと押し出された。

揺らぎは足裏から全身へと波紋のように広がった。

 

 

樹々の間に、かすかな白の痕跡が垂れ始める。

それは雨でも霧でもなく、記憶の滲みだった。

白の滲みは視界の奥で静かに形を失っていく。

 

 

岩壁を伝う湿りは、掌の内側にまで侵入してくる。

無意識に指を握りしめ、その冷えを留めた。

湿りは衣の隙間に潜り込み、体温の境界を曖昧にする。

 

 

滝壺の縁に近づくほど、地面は柔らかく崩れていく。

足元の不確かさが、逆に歩行を明瞭にした。

崩れる地面は歩幅を試し、意識の均衡を揺らしていた。

 

 

銀糸はついに全身を現し、森を切り裂くように落下していた。

その中心には、空白が凝縮された静けさがあった。

落下の音は遠い心臓のように一定の律を刻んでいる。

 

 

その縁で立ち止まり、風圧に身体を預ける。

濡れた衣の重さが、現在だけを強調している。

風圧は肩から背へと流れ、存在の輪郭を押し広げる。

 

 

水飛沫は皮膚を叩き、微細な針のように散った。

痛みではなく、存在の輪郭を刻む圧だった。

飛沫は視界を断続的に遮り、世界を細かく分断する。

 

 

滝の背後には、さらに深い暗が口を開けている。

その奥行きは視線ではなく、重力で測られていた。

暗は背後で膨張し、重力の形を変え続けていた。

 

 

一歩踏み出し、流れの境界に身を晒す。

世界が一度だけ、音を失う瞬間があった。

境界は足元で溶け、歩行そのものが流れに近づく。

足裏の感覚だけが現実を繋ぎ止める。

 

 

銀糸は途切れず、ただ落ち続けるだけの夢として在る。

その継ぎ目のない時間に、自らの歩行を重ねた。

銀の雨が静かに余白を埋め続ける。

 




銀の落下は背後でなお続き、距離だけが静かに増していた。
振り返らず、濡れた足裏の感覚を確かめながら歩く。
水音は薄れていくのではなく、記憶の層へ沈んでいくようだった。


衣に残る冷えは、風のない場所でも微かに揺れていた。
その揺れは歩行のたびに形を変え、身体の輪郭を曖昧にする。
世界の境界はすでに元の場所へ戻りつつあった。


森の湿りは徐々に乾き、空気は軽さを取り戻していく。
それでも掌には、あの滝の圧だけが遅れて残っている。
その遅延する重さとともに、次の未知へと足を運んだ。
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