地図にならない道の始まりへ立ち、足裏へ伝わる冷えだけを頼りに歩き始める。
この世界では、景色は誰かの夢がほどけた欠片から生まれる。
触れた草の湿りや風の重さは、その欠片同士を縫い合わせる細い糸となり、旅人の身体へ密やかに結ばれていく。
やがて遠い空の近くに、風が詩を編み続ける丘の気配が滲み始めた。
そこへ辿り着けば、継ぎ接がれた夢の断片は新しい輪郭を得て、まだ見ぬ道の続きを静かに語り始めるのだろう。
朝の薄い明るさがほどけるころ、風詩の丘へ続くらしい獣道に足を置いた。
踏みしめるたび土は浅い眠りから返事を返し、靴底へ柔らかな重みを移した。
空は近いのではなく、こちらの息が少しずつ高みへほどけていくようだった。
斜面には春色の草が細かな波を織り続けていた。
指先で穂先へ触れると冷えが残り、その奥からかすかな温みが滲み出す。
季節は形ではなく肌の内側へ届いていた。
小さな石段は誰かの記憶を継ぎ接いだように高さが揃わない。
足首は一段ごとに違う角度を覚え、骨の近くへ静かな軋みを宿した。
その揺れだけが道の古さを語っていた。
風が頬をかすめるたび、まだ名を持たない詩片が空気へ散った。
音にはならず、気配だけが耳の奥で淡く重なる。
その重なりを吸い込みながら歩幅を崩さなかった。
丘の途中には浅い窪地があり、光だけが水面のように溜まっていた。
膝を折ると冷えた湿気が衣へ染み込み、背中まで静かに伝わる。
そこには誰かの余韻だけが柔らかく沈殿していた。
枝先で芽吹く緑は透けるほど軽い。
触れた指腹へ薄膜のような弾力が残り、すぐ風へ返される。
掴めないものほど重さを忘れないらしかった。
坂は緩やかなはずなのに胸の奥へ細い圧を積み重ねる。
呼気は白くならず、それでも体温だけが空へ削られていく。
歩みは静かな儀式へ近づいていた。
遠くの尾根では影が雲より先に流れていた。
光は遅れて肩へ落ち、布越しの熱をゆっくり入れ替える。
昼はまだ完成していないようだった。
草の間から立つ香りは乾ききらない土を抱いている。
鼻先よりも喉の奥が先に湿り、旅路の長さを測り直された。
身体は景色より正確な地図になる。
細い尾根へ出ると風圧が胸板を押し返した。
一歩ごとに重心を低く沈め、空へ滑り落ちない形を探る。
その均衡だけが道標だった。
散った花びらは土へ還らず宙へ薄く貼り付いている。
手の甲をかすめた一枚は冷たい羽毛のようで、すぐ輪郭を失う。
夢は落ちるのでなく漂うものらしい。
足元の砂は細かな光を含み、踏むたび踵へ柔らかな震えを返した。
震えは膝を越えて背骨へ届き、言葉にならない残響を支える。
その揺れへ身体を預けた。
空際には幾層もの淡い青が折り重なっていた。
境目を見分けようと目を細めるほど、瞼の裏へ光が染み込む。
近づいたのは天ではなく呼吸だった。
古い切株には乾いた温度差だけが残されていた。
掌を置くと木目の深みから遠い気配が浮かび、すぐ風へほどける。
誰もいない静けさは空白ではなかった。
丘を渡る風は行き先を持たず、それでも迷わない。
衣の裾が何度も脚へ絡み、歩幅を細く刻み直す。
身体は見えない流れへ少しずつ書き換えられた。
陽は傾き始めても色を失わない。
柔らかな陰が足首へ巻き付き、疲れを冷たい布のように包む。
その重みは拒まれることなく馴染んでいく。
振り返ると通ってきた道は霞へ縫い込まれ、継ぎ目だけが微かに残っていた。
一歩ごとの跡は地面より私の内側へ深く沈んでいる。
旅は後ろへ伸びるほど軽くなる。
丘の頂では風だけが空へ届く詩を書き続けていた。
その余白へ静かに立ち、掌へ集まる冷えを抱いたまま歩き出す。
継ぎ接がれた夢の断片は足裏の温度となり、次の道へ淡く受け渡されていった。
丘を離れても、風は衣の襞へ細く残り続けていた。
歩幅の奥へ染み込んだ冷たい圧だけが、この場所が確かに存在していた証となる。
振り返った先には、もう丘の姿はなく、空だけが淡い光を幾重にも重ねている。
けれど足裏へ宿った温度は失われず、次の景色へ渡される夢の継ぎ目を静かに教えてくれた。
また名のない道へ足を向ける。
泡沫の世界は歩くたび形を変え、それでも身体へ刻まれた微かな触感だけは、どの旅より長く消えずに残り続ける。