泡沫紀行   作:みどりのかけら

1671 / 1671
まだ名を持たない朝の気配が、泡のように重なり合う世界の縁を静かに濡らしていた。
地図にならない道の始まりへ立ち、足裏へ伝わる冷えだけを頼りに歩き始める。


この世界では、景色は誰かの夢がほどけた欠片から生まれる。
触れた草の湿りや風の重さは、その欠片同士を縫い合わせる細い糸となり、旅人の身体へ密やかに結ばれていく。


やがて遠い空の近くに、風が詩を編み続ける丘の気配が滲み始めた。
そこへ辿り着けば、継ぎ接がれた夢の断片は新しい輪郭を得て、まだ見ぬ道の続きを静かに語り始めるのだろう。



1671 天に近づく風詩の丘

朝の薄い明るさがほどけるころ、風詩の丘へ続くらしい獣道に足を置いた。

踏みしめるたび土は浅い眠りから返事を返し、靴底へ柔らかな重みを移した。

空は近いのではなく、こちらの息が少しずつ高みへほどけていくようだった。

 

 

斜面には春色の草が細かな波を織り続けていた。

指先で穂先へ触れると冷えが残り、その奥からかすかな温みが滲み出す。

季節は形ではなく肌の内側へ届いていた。

 

 

小さな石段は誰かの記憶を継ぎ接いだように高さが揃わない。

足首は一段ごとに違う角度を覚え、骨の近くへ静かな軋みを宿した。

その揺れだけが道の古さを語っていた。

 

 

風が頬をかすめるたび、まだ名を持たない詩片が空気へ散った。

音にはならず、気配だけが耳の奥で淡く重なる。

その重なりを吸い込みながら歩幅を崩さなかった。

 

 

丘の途中には浅い窪地があり、光だけが水面のように溜まっていた。

膝を折ると冷えた湿気が衣へ染み込み、背中まで静かに伝わる。

そこには誰かの余韻だけが柔らかく沈殿していた。

 

 

枝先で芽吹く緑は透けるほど軽い。

触れた指腹へ薄膜のような弾力が残り、すぐ風へ返される。

掴めないものほど重さを忘れないらしかった。

 

 

坂は緩やかなはずなのに胸の奥へ細い圧を積み重ねる。

呼気は白くならず、それでも体温だけが空へ削られていく。

歩みは静かな儀式へ近づいていた。

 

 

遠くの尾根では影が雲より先に流れていた。

光は遅れて肩へ落ち、布越しの熱をゆっくり入れ替える。

昼はまだ完成していないようだった。

 

 

草の間から立つ香りは乾ききらない土を抱いている。

鼻先よりも喉の奥が先に湿り、旅路の長さを測り直された。

身体は景色より正確な地図になる。

 

 

細い尾根へ出ると風圧が胸板を押し返した。

一歩ごとに重心を低く沈め、空へ滑り落ちない形を探る。

その均衡だけが道標だった。

 

 

散った花びらは土へ還らず宙へ薄く貼り付いている。

手の甲をかすめた一枚は冷たい羽毛のようで、すぐ輪郭を失う。

夢は落ちるのでなく漂うものらしい。

 

 

足元の砂は細かな光を含み、踏むたび踵へ柔らかな震えを返した。

震えは膝を越えて背骨へ届き、言葉にならない残響を支える。

その揺れへ身体を預けた。

 

 

空際には幾層もの淡い青が折り重なっていた。

境目を見分けようと目を細めるほど、瞼の裏へ光が染み込む。

近づいたのは天ではなく呼吸だった。

 

 

古い切株には乾いた温度差だけが残されていた。

掌を置くと木目の深みから遠い気配が浮かび、すぐ風へほどける。

誰もいない静けさは空白ではなかった。

 

 

丘を渡る風は行き先を持たず、それでも迷わない。

衣の裾が何度も脚へ絡み、歩幅を細く刻み直す。

身体は見えない流れへ少しずつ書き換えられた。

 

 

陽は傾き始めても色を失わない。

柔らかな陰が足首へ巻き付き、疲れを冷たい布のように包む。

その重みは拒まれることなく馴染んでいく。

 

 

振り返ると通ってきた道は霞へ縫い込まれ、継ぎ目だけが微かに残っていた。

一歩ごとの跡は地面より私の内側へ深く沈んでいる。

旅は後ろへ伸びるほど軽くなる。

 

 

丘の頂では風だけが空へ届く詩を書き続けていた。

その余白へ静かに立ち、掌へ集まる冷えを抱いたまま歩き出す。

継ぎ接がれた夢の断片は足裏の温度となり、次の道へ淡く受け渡されていった。

 




丘を離れても、風は衣の襞へ細く残り続けていた。
歩幅の奥へ染み込んだ冷たい圧だけが、この場所が確かに存在していた証となる。


振り返った先には、もう丘の姿はなく、空だけが淡い光を幾重にも重ねている。
けれど足裏へ宿った温度は失われず、次の景色へ渡される夢の継ぎ目を静かに教えてくれた。


また名のない道へ足を向ける。
泡沫の世界は歩くたび形を変え、それでも身体へ刻まれた微かな触感だけは、どの旅より長く消えずに残り続ける。
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