泡沫紀行   作:みどりのかけら

1673 / 1673
谷の外縁にはまだ形を持たない風が滞留し、薄い膜のように揺れていた。
その境界に立ち、足裏へ伝わる湿り気のない冷たさを確かめていた。
遠くで翠の流れが折れ曲がり、見えない竜脈の方向を示しているようだった。


地面はすでに安定した形を失い、踏み出すたびに微細な沈降を繰り返していた。
空は高いのではなく、重なり合った層として頭上に圧をかけてくる。
その圧の下で呼吸は浅く整えられ、歩行の準備だけが静かに進んでいく。


裂谷の入口には名もない残響が滞り、過去の気配だけが薄く漂っていた。
触れれば崩れるほど脆い均衡が、風のない揺らぎとして広がっている。
その揺らぎを横切り、境界の内側へと身体を預けていった。



1673 翠嵐が駆ける竜脈の裂谷

翠嵐が駆ける竜脈の裂谷へ、徒歩のまま分け入った。

空は薄い膜のように揺れ、風は谷の奥へ吸い込まれていく気配を持っていた。

 

 

足裏に砕けた礫の温度が残り、歩みのたびに微かな振動が骨へ滲む。

湿り気を含んだ空気が皮膚にまとわりつき、境界が曖昧になる。

 

 

裂谷の縁は鋭く、地層は継ぎ接ぎのように重なっていた。

その隙間から冷たい風が吹き上がり、身体の内側を撫でていく。

 

 

歩幅のたびに靴底が湿った岩へ沈み、微細な水音が消えては生まれる。

遠くで崩れる砂の気配があり、時間が剥離しているようだった。

 

 

谷底へ降りるほど、空気は重さを増し、肩に見えない圧が積もる。

その圧は痛みではなく、記憶に似た沈黙として肌へ残った。

 

 

岩壁には緑の気配が奔り、翠嵐と呼ばれる流れが縦に走っていた。

それは風の通り道そのものが色を帯びたような錯覚だった。

 

 

手を伸ばし、濡れた岩肌に触れる。

冷たさは指先から遅れて心臓へ届き、内部の温度をゆっくり奪う。

 

 

裂け目の奥からは、存在の余韻のような響きが反射していた。

誰のものでもない呼吸の残像が、谷全体に薄く沈殿している。

 

 

歩き続けるうちに、足裏の感覚が薄れ、地面との境が消えていく。

代わりに湿度が身体の内部に入り込み、歩行そのものを置き換える。

 

 

竜脈と呼ばれる流れは目に見えず、しかし確かに重力を歪めていた。

傾斜は緩やかなのに、上昇している錯覚が背中に貼りつく。

 

 

風が一瞬途切れ、谷は静止した水面のように硬質な沈黙を帯びる。

その静けさは耳ではなく、皮膚の奥で聴こえていた。

 

 

岩陰に残された温度差に指を滑らせる。

そこだけ時間が遅れて剥がれ落ち、冷えが輪郭を持っていた。

 

 

裂谷の底には細い流れがあり、光を砕きながら進んでいる。

水音はなく、ただ揺らぎだけが視界を横切っていく。

 

 

歩みを進めるほどに、呼吸は谷の形へと整形されていく。

吸うたびに翠の風が肺の奥で静かに折り畳まれる。

 

 

岩壁の裂け目から、かすかな残響が滲み出す。

それは言葉ではなく、かつて在った気配の輪郭だった。

 

 

その輪郭に触れずに通り過ぎる。

触れれば崩れることを、身体が先に知っていた。

 

 

谷はやがて開け、風は再び駆け始める。

翠嵐は上昇し、空へと裂け目を縫い上げていく。

 

 

最後の一歩を踏み、竜脈の流れに身を預ける。

身体は軽くなり、重さだけが谷に置き去りになっていく。

 

 

谷の外縁は、薄い光の層へと変質していた。

足裏は地面を探すことをやめ、空白を踏むような感覚だけが残る。

翠嵐の残滓が背後でほどけ、皮膚の温度を静かに奪っていく。

 

 

竜脈の流れは遠ざかるのではなく、内部へ折り返してくる。

呼吸のたびに胸郭の奥で微細な風が回転し、重さと軽さが入れ替わる。

視界の輪郭は滲み、地平の代わりに揺れる層が重なっていく。

 

 

裂谷の記憶は、皮膚の裏側に薄く貼りついたまま離れない。

歩行の意味は静かに解体され、ただ移動の痕跡だけが残る。

どこでもない場所へと溶け、継ぎ接がれた夢の一片として漂い続ける。

 




谷の外へ抜けた後も、足裏にはまだ湿った岩の記憶が残っていた。
歩みは軽くなっているはずなのに、内部だけが遅れて沈み続けている。
翠嵐の気配は遠ざかりながらも、皮膚の裏側で微かに循環していた。


空は開かれているのではなく、薄く剥がれた層として静かに広がっていた。
その層の下で呼吸は落ち着きを取り戻し、竜脈の回転は緩やかに収束する。
振り返ることなく、残響だけを携えたまま歩行を続けていた。


裂谷の縁はすでに曖昧な線となり、境界は記憶の温度へと変質していた。
触れられないものが確かに存在していたという痕跡だけが、内側に残る。
それは消失ではなく、薄い継ぎ目として静かに定着していった。
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