泡沫紀行   作:みどりのかけら

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色硝子の器を手に取ったとき、ふと、ひとつの季節の手触りが甦ることがある。
それは過去の情景ではなく、名前のない光の記憶。

ひとたび指先が触れれば、たちまち胸の奥に音もなく降り注ぐような——そんな感覚に、言葉を探して歩きはじめた。
すこし遠回りをして、すこし迷いながら、ただ、風のにおいを追って。

この旅の途上、ひとつの夏に、出逢った。


0168 色硝子に閉じ込めた四季の夢

夏が溶ける音を聞いた気がした。

 

潮の香に濡れた風が、うなじをかすめるたび、見知らぬ季節の名を思い出しかけては忘れてゆく。

岩肌に砕ける波の白は、雲よりも軽く、夢よりもはかない。

指先を伝う光は、海ではなく空から落ちてくる硝子のかけらのようだった。

 

苔むした小径に、踏みしめた草の匂いが蒸されて立ちのぼる。

靴の底でざらりと音を立てた小石に、わずかにバランスを崩すと、耳の奥に残る蝉の声がひとつ、ふっと消えた。

 

草いきれを抜けた先で、風が変わった。

肌に触れず、瞼の裏へと吹き込んでくるような、深い青の匂いがあった。

見下ろす谷には、幾重にも重なる波形の緑、そのすべてが陽の光に飴のようにとけ、揺れていた。

 

入り江のような水辺に、透明な器のような静けさが満ちていた。

水面には空が映り、それが本当の空よりも澄んで見えることに、少しの躊躇が湧いた。

 

ひとすくい、掌に掬った水は指の間からすぐに流れ落ちたが、冷たさだけが骨の奥までしみた。

何も持たずに歩いてきたのに、水ひとつさえ抱えきれないことが、なぜか今になって、少しだけ惜しかった。

 

岸辺に立つ木々の葉が、風に吹かれ、時折、硝子細工のような音を立てていた。

見上げると、その葉の間に日が差して、何百もの翡翠が宙に浮いているようだった。

 

ひとつ、枝からこぼれ落ちた光の粒が足元に落ちた。

影のなかで、それは淡い琥珀に変わった。

指で触れると、もうそこには何もなかったが、心のどこかにその形だけが残っていた。

 

緩やかな坂を降りていく途中、ひときわ鮮やかな赤が、崖際の石の上に揺れていた。

花だった。

名も知らぬその花は、陽のすべてを吸い上げて燃えるようで、傍らの風までも少し温度を上げた。

指先を近づけると、かすかに花弁が揺れた。

それはまるで、言葉を持たない誰かが、静かにこちらを見ていたようだった。

 

色のない小道に、突如として現れる硝子のような色彩。

季節がこぼしてしまった夢のかけらを、ひとつひとつ拾い上げながら歩いている気がした。

 

風の音に混じって、遠くで水の音がする。

目を凝らせば、流れの細い小川が木陰の向こうを走っていた。

陽が差すたび、水のなかには無数の色が生まれては消えていった。

 

石の間をすり抜けて流れる水には、指先ほどの小魚たちが銀の影となって舞い、時おり跳ね上がる音が、透明な鐘の音のように胸を打った。

 

光が降る場所と影の落ちる場所との境界が、ことさらにくっきりとして見えた。

そこをまたいで歩くたびに、季節の体温がわずかに揺らいだ。

 

夏はもう、ひとところにはとどまっていなかった。

いたるところに、さざめきのように散って、戻らぬもののように。

 

谷間の風が、ふと、懐かしさに似た湿り気を帯びていた。

 

水面のきらめきは徐々に翳り、代わりに、葉擦れの音が深く胸に染みるようになる。

枝々の重なりが、影の色を青から灰に変えてゆき、その下にあるすべてが、まるで色を吸い込まれていくかのようだった。

 

息を吸うと、苔の香りが微かに鼻腔をくすぐった。

土の奥底から湧き上がるような、ひと雨ごとに深くなる匂い。

それは時間の底に眠る古い記憶のようで、思い出せないはずの風景を、なぜか脳裏に浮かべさせた。

 

足元の道はしだいにぬかるみ、滑らかな石の上にひと雫、またひと雫と、空から雫が落ちてきた。

 

雨が始まった。

 

それは騒がしくも冷たくもなく、硝子の粒が静かに草葉を打つような、音を持たぬ音だった。

肩に触れてもすぐに滲んで消えるそれは、まるで誰かの記憶にふれたときのように、痛みを伴わぬまま、皮膚の内側を濡らしていった。

 

深緑に染まる小径の奥に、ふいに光の反射が現れた。

濡れた石の上に、何かが置かれている。

 

近づくと、それは色硝子でできた小さな皿だった。

 

水を湛えたその器は、陽も灯も持たぬ空の下でも、なぜか明るさを孕んでいた。

縁には淡い藍色がにじみ、中心に向かって薄桃、水浅葱、檸檬といった、言葉にならないほど微細な色が、にじむように混ざり合っていた。

 

目を近づけると、皿の中に小さな夏が眠っていた。

 

水面にうつるのは、さっき見た入り江とは違う、もっと静かで、ひとりの記憶のなかだけに存在するような、時を忘れた風景だった。

そこでは蝉の声も風の音もない。

ただ、揺れる光だけが時間の代わりに動いていた。

 

指先を伸ばし、そっと器に触れる。

瞬間、掌に走った感触は、冷たさというよりも、光の骨にふれたようなものだった。

 

だれかが、ここで夢を閉じ込めた。

失くしたくなかったものを、季節ごと封じたような。

 

皿を元の位置に戻すと、不思議なことに、雨の気配が遠のいていた。

雲はまだ空にいたが、光の道が差し、草むらのなかに虹の一片が落ちていた。

 

歩き出すと、まるで何かが終わったあとの静けさが、辺りを包んでいた。

 

背後で、硝子の皿がかすかに揺れた。

風も触れなかったのに。

 

振り返らずに歩いた。何も持たずに。

けれど、手のひらには、ひとしずくの光が残っている気がした。

 

それが何色だったのか、もう思い出せない。

けれど、まばたきするたび、その色が瞼の裏に、かすかなぬくもりとともに滲んでいた。

 

いつか、また。

 

色硝子に封じられた夢のかけらに、再び出逢うそのときまで。




道はいつの間にか、見えなくなっていた。
それでも歩いていると、時折、足元に光のかけらが落ちてくる。
それはきっと、季節が忘れていった夢の残り香。

音を立てずに揺れる葉や、水面に映る空の色の奥に、かつて見た風景が静かに潜んでいることがある。
それを拾い上げるたび、胸の奥にそっと火が灯るような、小さなあたたかさが残った。

硝子の器のなかには、まだ知らない季節が眠っている。
それにふれる日が、また来るだろう。
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