それは過去の情景ではなく、名前のない光の記憶。
ひとたび指先が触れれば、たちまち胸の奥に音もなく降り注ぐような——そんな感覚に、言葉を探して歩きはじめた。
すこし遠回りをして、すこし迷いながら、ただ、風のにおいを追って。
この旅の途上、ひとつの夏に、出逢った。
夏が溶ける音を聞いた気がした。
潮の香に濡れた風が、うなじをかすめるたび、見知らぬ季節の名を思い出しかけては忘れてゆく。
岩肌に砕ける波の白は、雲よりも軽く、夢よりもはかない。
指先を伝う光は、海ではなく空から落ちてくる硝子のかけらのようだった。
苔むした小径に、踏みしめた草の匂いが蒸されて立ちのぼる。
靴の底でざらりと音を立てた小石に、わずかにバランスを崩すと、耳の奥に残る蝉の声がひとつ、ふっと消えた。
草いきれを抜けた先で、風が変わった。
肌に触れず、瞼の裏へと吹き込んでくるような、深い青の匂いがあった。
見下ろす谷には、幾重にも重なる波形の緑、そのすべてが陽の光に飴のようにとけ、揺れていた。
入り江のような水辺に、透明な器のような静けさが満ちていた。
水面には空が映り、それが本当の空よりも澄んで見えることに、少しの躊躇が湧いた。
ひとすくい、掌に掬った水は指の間からすぐに流れ落ちたが、冷たさだけが骨の奥までしみた。
何も持たずに歩いてきたのに、水ひとつさえ抱えきれないことが、なぜか今になって、少しだけ惜しかった。
岸辺に立つ木々の葉が、風に吹かれ、時折、硝子細工のような音を立てていた。
見上げると、その葉の間に日が差して、何百もの翡翠が宙に浮いているようだった。
ひとつ、枝からこぼれ落ちた光の粒が足元に落ちた。
影のなかで、それは淡い琥珀に変わった。
指で触れると、もうそこには何もなかったが、心のどこかにその形だけが残っていた。
緩やかな坂を降りていく途中、ひときわ鮮やかな赤が、崖際の石の上に揺れていた。
花だった。
名も知らぬその花は、陽のすべてを吸い上げて燃えるようで、傍らの風までも少し温度を上げた。
指先を近づけると、かすかに花弁が揺れた。
それはまるで、言葉を持たない誰かが、静かにこちらを見ていたようだった。
色のない小道に、突如として現れる硝子のような色彩。
季節がこぼしてしまった夢のかけらを、ひとつひとつ拾い上げながら歩いている気がした。
風の音に混じって、遠くで水の音がする。
目を凝らせば、流れの細い小川が木陰の向こうを走っていた。
陽が差すたび、水のなかには無数の色が生まれては消えていった。
石の間をすり抜けて流れる水には、指先ほどの小魚たちが銀の影となって舞い、時おり跳ね上がる音が、透明な鐘の音のように胸を打った。
光が降る場所と影の落ちる場所との境界が、ことさらにくっきりとして見えた。
そこをまたいで歩くたびに、季節の体温がわずかに揺らいだ。
夏はもう、ひとところにはとどまっていなかった。
いたるところに、さざめきのように散って、戻らぬもののように。
谷間の風が、ふと、懐かしさに似た湿り気を帯びていた。
水面のきらめきは徐々に翳り、代わりに、葉擦れの音が深く胸に染みるようになる。
枝々の重なりが、影の色を青から灰に変えてゆき、その下にあるすべてが、まるで色を吸い込まれていくかのようだった。
息を吸うと、苔の香りが微かに鼻腔をくすぐった。
土の奥底から湧き上がるような、ひと雨ごとに深くなる匂い。
それは時間の底に眠る古い記憶のようで、思い出せないはずの風景を、なぜか脳裏に浮かべさせた。
足元の道はしだいにぬかるみ、滑らかな石の上にひと雫、またひと雫と、空から雫が落ちてきた。
雨が始まった。
それは騒がしくも冷たくもなく、硝子の粒が静かに草葉を打つような、音を持たぬ音だった。
肩に触れてもすぐに滲んで消えるそれは、まるで誰かの記憶にふれたときのように、痛みを伴わぬまま、皮膚の内側を濡らしていった。
深緑に染まる小径の奥に、ふいに光の反射が現れた。
濡れた石の上に、何かが置かれている。
近づくと、それは色硝子でできた小さな皿だった。
水を湛えたその器は、陽も灯も持たぬ空の下でも、なぜか明るさを孕んでいた。
縁には淡い藍色がにじみ、中心に向かって薄桃、水浅葱、檸檬といった、言葉にならないほど微細な色が、にじむように混ざり合っていた。
目を近づけると、皿の中に小さな夏が眠っていた。
水面にうつるのは、さっき見た入り江とは違う、もっと静かで、ひとりの記憶のなかだけに存在するような、時を忘れた風景だった。
そこでは蝉の声も風の音もない。
ただ、揺れる光だけが時間の代わりに動いていた。
指先を伸ばし、そっと器に触れる。
瞬間、掌に走った感触は、冷たさというよりも、光の骨にふれたようなものだった。
だれかが、ここで夢を閉じ込めた。
失くしたくなかったものを、季節ごと封じたような。
皿を元の位置に戻すと、不思議なことに、雨の気配が遠のいていた。
雲はまだ空にいたが、光の道が差し、草むらのなかに虹の一片が落ちていた。
歩き出すと、まるで何かが終わったあとの静けさが、辺りを包んでいた。
背後で、硝子の皿がかすかに揺れた。
風も触れなかったのに。
振り返らずに歩いた。何も持たずに。
けれど、手のひらには、ひとしずくの光が残っている気がした。
それが何色だったのか、もう思い出せない。
けれど、まばたきするたび、その色が瞼の裏に、かすかなぬくもりとともに滲んでいた。
いつか、また。
色硝子に封じられた夢のかけらに、再び出逢うそのときまで。
道はいつの間にか、見えなくなっていた。
それでも歩いていると、時折、足元に光のかけらが落ちてくる。
それはきっと、季節が忘れていった夢の残り香。
音を立てずに揺れる葉や、水面に映る空の色の奥に、かつて見た風景が静かに潜んでいることがある。
それを拾い上げるたび、胸の奥にそっと火が灯るような、小さなあたたかさが残った。
硝子の器のなかには、まだ知らない季節が眠っている。
それにふれる日が、また来るだろう。