その風は地図を奪うことなく、足裏の感覚だけを静かに遠くへ導いてゆく。
泡の膜を一枚ずつ踏み越えながら、目覚めきらない世界の縁を歩き続けた。
春は花ではなく、空気の重なりとして身体へ降り積もっていた。
袖を撫でる湿りは昨日までの景色を淡くほどき、掌にはまだ触れていない場所の冷たさが宿る。
その予感だけを携え、名も知らぬ小径を進んだ。
やがて紫を秘めた光が霞の向こうで静かに揺れ始める。
近づくほど輪郭は曖昧になり、夢と記憶を継ぎ合わせたような宮の気配だけが春風へ溶けていた。
息を浅く整え、その夢の入口へ足を運んだ。
朝の薄い光が、紫晶宮の外壁を水面のようにほどいていた。
濡れた石畳を踏みしめ、その冷えが足裏から静かに胸へ届く道筋を受け入れた。
淡い花粉に似た光粒が風へ混じり、春は形ではなく圧として肩へ降り積もる。
宮は継ぎ接がれた夢の断片を幾重にも抱え、近づくほど輪郭を失っていった。
壁面には紫の結晶が薄く息づき、触れた指先へ柔らかな震えを返した。
その細かな脈動は遠い余韻を宿し、誰かがかつて願いを置いた温度だけを残している。
中庭らしき空間では、水は流れず空気だけが浅い波紋を描いていた。
足首を包む湿度が歩幅をわずかに変え、身体は見えない拍子へ自然と重なってゆく。
柱の影は春風にほどけ、床へ細い帯を縫い合わせていた。
その縫い目を踏むたび、靴底ではなく骨の奥が柔らかく沈む感触を覚える。
高い天井から降る光は音にならず、夢幻の調べだけが気配として漂っていた。
耳ではなく首筋がその震えを受け取り、冷たい空気がゆっくり皮膚を撫でる。
壁の継ぎ目には透明な苔が眠り、露は記憶より軽く指へまとわりつく。
払おうとするほど離れず、歩みそのものへ淡い重さを結び直していく。
回廊を巡り、曲がるたび景色ではなく季節の密度が変わることを知った。
春は花ではなく呼吸の深さとなり、胸郭の内側で静かな膨らみを繰り返していた。
遠い床石には細かな擦れが幾重にも残り、見えない往還の余熱だけが薄く宿る。
そこへ掌を置くと冷たさの奥から微かな温度差が浮かび、気配は水紋のように広がった。
天窓に似た裂け目から白い光が差し込み、紫晶は柔らかな霞へ姿を変える。
まぶしさは目を閉じても消えず、額の裏側へ静かな波として染み渡った。
庭の縁には細い草が揺れずに立ち、その静止だけが風の存在を映している。
袖口へ触れる空気は乾きと潤いを交互に重ね、身体は曖昧な境界へ溶け込んだ。
壁へ背を預け、石の冷えが旅の長さを測る秤であることを思う。
重さは疲れではなく、積み重なった夢の薄片が肩へ降り積もる感触だった。
宮の奥では光と影が互いを縫い合わせ、ほどけかけた空間を静かに支えていた。
継ぎ目へ足を運ぶたび、靴底から細かな脈が立ち上がり、歩みは少しだけ軽くなる。
淡紫の結晶は春霞を抱き込み、小さな虹を何度も生み直していた。
その色彩は掌へ触れる寸前で霧へ戻り、掴めぬまま皮膚へ湿りだけを残す。
回廊の果てには扉らしき影があり、近づくほど境目は水面のように揺らいだ。
指先をかざし、冷たい膜を押すような抵抗を受けながら静かに越えてゆく。
向こう側では空が低く、夢は雲ではなく薄い布として枝々へ掛けられていた。
揺れない布から零れる残響だけが、見えない足跡を春へ縫い留めている。
歩き続けるほど宮は遠ざかるのでなく、身体の内側へ折り畳まれていった。
肩へ触れる風圧は軽くなり、それでも背中には結晶の冷えが長く留まっていた。
最後の石畳を踏み越え、振り返らず淡い野へ足を進める。
紫晶宮に舞っていた夢幻の調べは胸の深い湿度へ静かに沈み、継ぎ接がれた夢の断片だけが次の道を柔らかく照らしていた。
宮を離れてなお、掌には結晶へ触れた冷えが薄く残っていた。
春の風は何も持ち帰らせないふりをしながら、歩幅の奥へ静かな余韻だけを沈めていく。
その重さを確かめるように、ゆっくりと次の道を踏みしめた。
振り返れば景色は淡い霧へ溶け、宮の姿は泡が弾けるように空へほどけていた。
残されたのは光でも影でもなく、胸の内側で揺れ続ける夢幻の調べだけだった。
その響きは言葉にならず、旅の続きを静かに促している。
歩くたび世界は少しずつ継ぎ接がれ、新しい夢が古い夢の隙間へ縫い込まれていく。
終わりを探さず、春の湿りを纏ったまま名もない地平へ歩みを重ねた。
泡沫の異世界は、今日も誰にも気づかれないまま、次の一頁を静かに待っていた。