泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夏の夜、蒼さを湛えた静かな高みを訪れた。

風は優しく、空は限りなく深く、どこか遠い昔の声が届いてくるようだった。
歩みの先に広がるその風景は、どんな言葉も追いつけないほど静かで、ただ、すべてを受け入れていた。

その夜、心の奥に沈んだものを、言葉にしてみたくなった。


0169 星々と語らう蒼天の砦

蒼の深みがすこしずつ濃くなる。

あたたかな風が頬をかすめ、髪をさらって過ぎていく。

足元に広がる草の海は、誰にも触れられぬ夢のように、風にそよぎながらささやいていた。

 

ゆるやかな勾配を登るほど、地面は黙して語らず、ただ静けさだけを返す。

それは声ではなく、呼吸でもなく、夜が深くなるたびに世界がほどけてゆく音。

岩肌の裂け目に咲いた白い花が、ひとつ、またひとつと星影を拾うように震えている。

 

踏みしめた土の感触がやわらかく変わった。

風の匂いに微かな塩気と冷たさが混じる。

手のひらに残る昼の熱が、そっと拭われていく。

 

ふと、ひらけた。

木々の背が消え、そこにあったのは、言葉を失わせるほど静かな夜空。

星々は、散りばめられた意図のない光のように、ただ在った。

ただ在るという、それだけの理由で、胸の奥にひとしずくの鼓動を落としていく。

 

目を閉じれば、闇の奥からかすかに波の記憶が響いてくる。

遥かな時の底から、呼びかけるような、あるいは眠るような。

遠く光るものはすべて、手の届かぬまま、しかし確かにこちらを見ていた。

 

衣の裾が冷えている。

座り込んだ岩はひんやりとして、まるで夜そのもののようだった。

膝に手を置き、静かに息をつく。

この世界に、自分の音がひとつ混ざるだけで、何かが変わってしまうような錯覚。

 

遠くの闇に、ひとつ、かすかな光が生まれる。

それは誰かの灯した火ではなく、夜の底から湧きあがる、記憶のひかり。

まるで星の声が形を取ったかのように、ゆらゆらと瞬いていた。

 

指先にふれる空気が少しずつ重くなる。

夏の夜というにはあまりにもひっそりとした冷えが、胸の奥にしみ入ってくる。

けれどそれは、どこか懐かしくもあった。

かつて見上げた空が、確かにここにあるのだと、肌が知っていた。

 

星々の光が、雲のない夜を透かして、冷たく、あたたかい。

どこまでも届くはずのない想いが、どこまでも届いてしまいそうな夜だった。

 

すぐそばに風の音。

その背に乗って、遠い昔の誰かの記憶がふとよぎる。

名もない夢の断片が、この高みにひそやかに舞い戻ってきたのかもしれない。

 

あの頃、何を見上げていたのか。

どんな光を、どんな闇を、抱えて歩いていたのか。

それはもう、思い出せない。

けれど、この夜空が、すべてを抱いているように思えた。

 

耳をすませば、星が語る声がする。

それは言葉ではなく、光と沈黙のはざまに揺れる鼓動のようなもの。

空は黙ってそれを繰り返す。

誰に向けられたものでもない、ただそこにある真実のように。

 

石の上に預けた手のひらに、夜露がひとしずく落ちた。

わずかな音が、耳の奥に広がる。

それはまるで、星が一粒、地に落ちたようだった。

 

この静けさのなかでは、すべての音が意味を持つ。

遠くで草が揺れるたび、見えない誰かの気配を感じる。

風が肌をなぞるたびに、言葉にならない記憶が胸を撫でてゆく。

 

星々は、何ひとつ語らず、ただあり続けることで、全てを語っていた。

数えきれぬ光の粒が、夜空に縫いとめられている。

ひとつひとつがそれぞれの孤独を持ち、互いに触れずに並んでいる。

 

けれど、不思議と寂しくはなかった。

むしろ、それらが互いを照らし合うように、遠くからでも確かに、寄り添っていた。

 

雲はどこにもなかった。

すべてを見通す透明な空に、言いようのないやすらぎがあった。

声を持たぬ空は、静かに胸の奥をあたためてくれる。

 

掌の上で冷えてゆく夜気は、まだ知らぬ明日を運んでくる。

その兆しはどこにも見えず、ただひとつ、星の配置がわずかに変わりゆくことで知るだけだった。

 

岩に背を預けて目を細めると、地平の向こうに淡い輪郭が浮かんでくる。

それは、夜と夜の狭間にだけ現れる、誰にも名づけられぬ色。

光のようで闇のようで、見るほどに形を持たない。

 

時間は、ここではまるで別の流れ方をしている。

ひと呼吸ごとに、何かが去り、何かが生まれている。

それは確かに目には見えないけれど、足元の石が、草が、花が、そして風が知っている。

 

夜の中に佇むことでしか出会えないものがある。

それは、誰にも語られない小さな真実。

旅の途中でしか拾えぬ、ひとしずくの祈りのようなもの。

 

そして今、その祈りが、胸の奥にそっと沈んでいくのがわかる。

何かが変わるわけではない。

けれど、なにかが、静かに澄んでいく。

 

足元の草を撫でながら立ち上がる。

風が少しだけ強くなった。

空はまだ、星々を落とさずに抱いていた。

 

夜が深まりきる前に、もう一度だけ見上げる。

そこには、確かに、今だけの空があった。

同じ形にはもう二度とならない、一度きりの、静かな奇跡。

 

それを胸に収めて、足を前に出す。

音もなく、また歩き出す。

空はただ、何も語らず、すべてを見守っていた。




静けさのなかに身を置くと、自分の輪郭がほんの少し変わってゆく気がする。

あの夜、見上げた空の色や、頬を撫でた風のやわらかさが、今も胸の奥で呼吸をしている。

あの場所はもう背後にあるけれど、あの夜の記憶だけは、いつでも目を閉じれば還ってくる。
そして、また歩いてゆける。
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