泡沫紀行   作:みどりのかけら

17 / 1176
冷たく清らかな空を裂く風の音が、
遥か遠くから旅人の耳を揺らす。

足元に続く獣道は、
いつしか土の色を失い、
白く砕けた石に覆われた。

それはまるで、時の終わりに遺された祈りの小径のようだった。


0017 風の回廊

高い丘陵をいくつも越えた先に、それは突然現れた。

 

まるで大地の先端が千切れ落ちたような場所。

風が声を持ち、ひとつの意思を持って旅人を迎え入れる。

その空間には、名前も季節もなかった。ただ、終わらない風だけが在った。

 

草の背は低く、葉先はみな同じ方向を向いていた。

風に抗うことなく、ひたすらになびくその姿は、

まるで古の詩に記された祈りのように、静かで、美しかった。

 

歩くたびに、小石が擦れる音が耳の奥に沈む。

それは波の音ではなかった。だが、

岩にぶつかり、砕けては戻る波の気配が、

音もなく地中から伝わってくる。

 

崖の縁まで来ると、空は急に低くなった。

 

旅人は風に押されながら、片足を引きずるようにして前へ進む。

草は消え、かわりに白い砂が、崖の肌を薄く覆っていた。

目の前に広がるものは、もはや「海」と呼ぶにはあまりに暴力的だった。

 

灰色と銀と泡の層が、幾重にも押し寄せては引き、

削れた岩肌にしがみつき、叫ぶようにまた戻ってゆく。

空と海の境は滲み、風がすべての輪郭を曖昧にしていた。

 

まるで世界が、ここで息を吐くことを忘れてしまったようだった。

 

白い鳥たちが舞っていた。

けれども彼らは、羽ばたかず、ただ風に乗っていた。

上へも、下へも向かわず、ただこの空間に溶けこむように。

彼らの影だけが、草の上を音もなく流れてゆく。

 

旅人は崖の端に膝をつき、目を閉じた。

 

耳に届くものは、風のざわめきだけ。

だがそのざわめきは、どこか懐かしく、誰かの記憶を撫でるようだった。

遠くで笑う声、消えた歌、まだ名のない夢。

それらが風に乗って、この場所に辿りつき、

そしてまた海へと還ってゆく。

 

指先で触れた石は、塩と時間に磨かれ、すべらかだった。

それはかつて、誰かが握ったものだったのかもしれない。

あるいは、この場所にすべてを委ね、静かに姿を消した者の遺した欠片かもしれなかった。

 

雲が裂け、白い光が崖の一部を照らした。

 

一瞬、その光の筋が道のように思えた。

この崖から、どこか知らない世界へ通じる、細く儚い回廊。

だが旅人は歩かなかった。

この場に留まり、風の中で、忘れられた何かに触れ続けていたかった。

 

太陽は見えない。だが、時が移ろってゆく気配だけは確かにあった。

 

潮の音が、かすかに柔らかくなった。

鳥の影が、低くゆっくりと流れ始めた。

風もまた、微かに呼吸を整えるように、その勢いを落とした。

 

旅人は立ち上がり、もう一度、崖の先を見つめた。

 

そこには、ただ白の記憶が横たわっていた。

 

名前を持たず、時を持たず、誰に属すこともない

それでも確かに存在し続ける

永遠の、白。

 




この場所には、誰の声も届かない。

けれども、風が語り、石が記憶し、海が抱えている。

それだけで、すべてが十分なのだと思える。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。