遥か遠くから旅人の耳を揺らす。
足元に続く獣道は、
いつしか土の色を失い、
白く砕けた石に覆われた。
それはまるで、時の終わりに遺された祈りの小径のようだった。
高い丘陵をいくつも越えた先に、それは突然現れた。
まるで大地の先端が千切れ落ちたような場所。
風が声を持ち、ひとつの意思を持って旅人を迎え入れる。
その空間には、名前も季節もなかった。ただ、終わらない風だけが在った。
草の背は低く、葉先はみな同じ方向を向いていた。
風に抗うことなく、ひたすらになびくその姿は、
まるで古の詩に記された祈りのように、静かで、美しかった。
歩くたびに、小石が擦れる音が耳の奥に沈む。
それは波の音ではなかった。だが、
岩にぶつかり、砕けては戻る波の気配が、
音もなく地中から伝わってくる。
崖の縁まで来ると、空は急に低くなった。
旅人は風に押されながら、片足を引きずるようにして前へ進む。
草は消え、かわりに白い砂が、崖の肌を薄く覆っていた。
目の前に広がるものは、もはや「海」と呼ぶにはあまりに暴力的だった。
灰色と銀と泡の層が、幾重にも押し寄せては引き、
削れた岩肌にしがみつき、叫ぶようにまた戻ってゆく。
空と海の境は滲み、風がすべての輪郭を曖昧にしていた。
まるで世界が、ここで息を吐くことを忘れてしまったようだった。
白い鳥たちが舞っていた。
けれども彼らは、羽ばたかず、ただ風に乗っていた。
上へも、下へも向かわず、ただこの空間に溶けこむように。
彼らの影だけが、草の上を音もなく流れてゆく。
旅人は崖の端に膝をつき、目を閉じた。
耳に届くものは、風のざわめきだけ。
だがそのざわめきは、どこか懐かしく、誰かの記憶を撫でるようだった。
遠くで笑う声、消えた歌、まだ名のない夢。
それらが風に乗って、この場所に辿りつき、
そしてまた海へと還ってゆく。
指先で触れた石は、塩と時間に磨かれ、すべらかだった。
それはかつて、誰かが握ったものだったのかもしれない。
あるいは、この場所にすべてを委ね、静かに姿を消した者の遺した欠片かもしれなかった。
雲が裂け、白い光が崖の一部を照らした。
一瞬、その光の筋が道のように思えた。
この崖から、どこか知らない世界へ通じる、細く儚い回廊。
だが旅人は歩かなかった。
この場に留まり、風の中で、忘れられた何かに触れ続けていたかった。
太陽は見えない。だが、時が移ろってゆく気配だけは確かにあった。
潮の音が、かすかに柔らかくなった。
鳥の影が、低くゆっくりと流れ始めた。
風もまた、微かに呼吸を整えるように、その勢いを落とした。
旅人は立ち上がり、もう一度、崖の先を見つめた。
そこには、ただ白の記憶が横たわっていた。
名前を持たず、時を持たず、誰に属すこともない
それでも確かに存在し続ける
永遠の、白。
この場所には、誰の声も届かない。
けれども、風が語り、石が記憶し、海が抱えている。
それだけで、すべてが十分なのだと思える。