泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夜の熱がまだ地面に残る頃、風だけが涼しさを知っていた。
歩く足音のそばには、名もない影と、言葉にならない気配。
静けさのなかに満ちていたのは、形にならなかった思いの欠片。

灯りがひとつ、またひとつと揺れる。
その先にあるものを確かめたくて、歩きはじめた。


0170 風と旅人が出逢う創造の港

水面は、深く息を潜めていた。

遠く揺れる光の粒は、誰かの夢の残滓のように、ただそこに在ることを選んでいた。

濃藍の空と、鈍くきらめく水の肌。

そのあわいに立ち尽くすと、風は音を持たず、肌をなぞる指のようにして過ぎていく。

 

広がる夜の広場には、静かな祈りのような形が並んでいた。

歪な円、鋭角の影、ひとつひとつが異なる言葉を持っている。

木でできたもの、石を重ねたもの、空をくりぬいたような輪郭を持つもの。

月光がその隙間を通り抜けるたびに、影はさざなみのように揺れて、何かを話しかけてくる。

けれどその声は、誰にも届かない。

 

かすかに汗ばむ掌を衣のすそに拭い、もう一歩、石畳の先へと踏み出す。

どこかで鐘が鳴った。

時間を告げるには遅すぎる、しかし別れを告げるには静かすぎる、

そんな音だった。

その音に、胸の奥の浅い層が、わずかに震えた気がした。

 

木立の間から、小さな階段がのびている。

夜に沈みかけたその段は、苔の匂いと、夏の熱の名残をまだ宿していた。

足裏から伝わるひんやりとした湿り気は、昼のざわめきを吸い込んだ土の記憶を帯びている。

 

上りきった先に広がるのは、ゆるやかに円を描く空間だった。

そこには風が、言葉のように、かたちをもって吹いていた。

幾本もの白い布が、天から吊るされている。

無風のはずのこの夜に、布はそよぎ、踊り、また沈黙する。

 

足音が、砂利のうえに細く、細く刻まれる。

耳を澄ませば、夜の輪郭がわかる。

誰かが置いていった金属片が、風と遊び、かすかな鈴のような音を生んでいる。

それはあまりにも小さく、消えてしまいそうな旋律だったが、確かにそこにあった。

 

見上げると、夜空に白い線が浮かんでいる。

流れ星ではない。何かの仕掛けなのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。

その線は、星々のあいだに架けられた橋のようで、今にも歩いて渡れる気がした。

手を伸ばせば、指先がかすかに温かい空気を掴む。

どこからか流れてきた香が、唇の輪郭をなぞるように通り過ぎていく。

干し草、塩、熟れた実、そして記憶にあるはずのない誰かの声。

 

足元に転がる小石をひとつ、拾い上げる。

月光がそれに触れ、うすい金色の影を作る。

その石には、誰かの爪の跡のような傷がひとつ刻まれていた。

なぜかその傷を撫でる指先に、懐かしさのようなものがじんわりと広がっていく。

 

空は、もう少しで夜の最も深い底に触れようとしていた。

その時、光の群れが、視界の端でそっと動いた。

誰かが置いたのか、それとも生まれたのか。

小さな灯りが、いくつも並び、道を描いている。

風に揺れるその光たちは、まるで夜そのものが夢を見ているかのように、静かに瞬いていた。

 

歩み寄る。灯りのそばに、半ば崩れかけた形の彫像があった。

その顔は剥がれ、輪郭さえ不明瞭なのに、なぜか笑っているように見えた。

それは見ているのではない、見守っているのでもない。

ただ、在る。

それが、この場所に置かれた意味だった。

 

掌に残る小石の感触が、脈を打つように心の奥に響く。

空には、星が満ちていた。

誰も気づかぬほどゆっくりと、夜は少しずつ形を変えていた。

 

草むらの奥に、ひときわ背の高い影があった。

近づくにつれて、それが木ではないことに気づく。

金属のような、しかし触れれば温かそうな質感。

その表面には、夜のしずくが静かに降り積もっていた。

光の届かぬ場所にだけ生まれる、ひとつの静寂のように。

 

掌を伸ばすと、冷たさは思ったよりも優しく、皮膚の下にある記憶を呼び起こす。

かつて誰かがここに触れ、何かを願ったことがあったのだろう。

願いはいつか消えてしまう。

それでも形だけは残る。

風がそれを知っている。

だからこそ、吹きすぎるだけでなく、時に立ち止まるのだ。

 

灯りの道を辿っていくと、やがて足元に変化が訪れる。

石畳が途切れ、土に還る。

その土には幾重もの靴跡が刻まれている。

だが、不思議と騒がしさはなかった。

それらの足跡は、音をたてない人々の記憶のように、ただそこに重なっていた。

 

しばらく歩くと、音がした。

何かが揺れる、微かな音。

振り返ると、風に吊るされた紙が一枚、ゆらゆらと揺れていた。

白い面に、墨のような黒が流れている。

文字か絵かも判別できない。

それでも、その模様には確かに、思いが込められていると感じた。

まるで、眠る前に誰かが語った物語の断片のように。

 

空を見上げる。

星たちは、相変わらず遠く、手の届かない静寂をまとっている。

だが、それらを繋ぐ光の線は、どこか身近だった。

歩けば、たどり着ける気がした。

この道がどこへ向かっているのかは知らない。

けれど今夜だけは、迷っても構わないような気がした。

 

やがて、小さな高台に辿り着く。

そこには石が組まれ、中心に火のようなものが灯っていた。

火ではない。

炎のように見える布が、風に舞っているだけだった。

けれどその動きには、確かにあたたかさがあった。

そっと座り、呼吸を落とす。

静かに、静かに。

 

遠くから、打ち寄せる波の音が届く。

その音は、海のものではない。

風が木々の葉をすべらせる音、草が夜に擦れる音、

それらが幾重にも重なり合って、ひとつの波をつくっていた。

 

目を閉じると、夜の奥に誰かの気配を感じる。

それは人ではなく、記憶でもない。

もっと深い、名前のない存在のようなもの。

かつてここに訪れ、また去っていった者たちの、想いの余韻。

その気配が、静かに寄り添ってくる。

 

再び目を開けると、灯りたちは遠くへ続いていた。

まるで夜そのものが、ひとつの詩のように編まれている。

歩いていける。

この夜の向こうへ。

風が背中を押す。

そして、まだ見ぬ光へと導いてゆく。

 

足を踏み出す。

誰もいないはずのその場所で、心はわずかに震えていた。

けれどそれは恐れではなかった。

名もない静かな感情が、胸の奥で、かすかに息をしていた。

 

遠く、またひとつ、光が揺れた。




風が遠くへ去り、空が色を変えはじめる。
足元の石は、まだ夜の名残りを抱いていた。
歩いてきた道には、もう灯りはない。けれど、それでよかった。

ひととき、眠れる星たちと同じ静けさを呼吸できたのなら、
それは、忘れられてもかまわないほど深い贈りものだった。
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