私はまだ名のない崩れた城跡に似た場所の手前に立ち、湿った風の圧を受けている。
足元の土はすでに水へと傾き、境界は曖昧に呼吸していた。
遠くの空は破れた布のように揺れ、光はそこから零れ落ちている。
歩き出す前から靴底には冷えが染み込み、時間の輪郭が薄く滲む。
見えない楼閣の影が水面の奥で静かに形を試していた。
私は一歩を踏み出し、世界が沈黙の重さを増すのを感じる。
風は言葉の代わりに肌を撫で、進む方向だけを曖昧に示す。
その瞬間、泡のような旅がすでに始まっていると知る。
泡沫の回廊を歩き始めた午後の気配が足裏に沈む。
風は薄い塩の匂いを含み視界の端で波紋のように揺れる。
遠くの楼閣の影だけが水面の奥で逆さに呼吸していた。
靴底に絡む湿った砂が記憶の層のように重さを増す。
透明な霧の壁を抜けるたび肌温がわずかに奪われる。
崩れた石列はかつての門の記憶を沈黙のまま抱いていた。
春の光は薄い膜となり肩に触れてはすぐほどけていく。
足元の水たまりには空ではない空が静かに沈殿する。
遠景の楼閣は輪郭を保ちながらも光の中でほどけ続ける。
風圧は胸郭を通り抜け内部の空洞を静かに鳴らした。
岸辺の石は潮の代わりに微光を滲ませて濡れている。
影は足音を持たずに遅れて追いかけてくる気配を残す。
水面を渡る光の粒が皮膚に微細な刺痛を置いていく。
崖の縁では時間が薄く剥がれ落ちる音だけが続いていた。
私は湿った空気の重さに呼吸の輪郭を奪われていく。
断片化した塔の影が波間でゆっくりと解けて沈む。
足裏に残る冷えは地層の奥から滲む記憶のようだった。
遠くの水面は逆光の中で静かに割れ続ける鏡となる。
風の通り道には見えない階段が幾重にも重なっていた。
その階段を踏むたび膝の内側に冷たい圧が走る。
崩れた楼閣の記憶が潮の匂いと混ざり境界を曖昧にする。
私は歩幅を浅くしながら水面に触れる錯覚を受け取る。
霧の内側では音が遅れて届き時間の輪郭が滲んでいる。
指先に触れる冷気は石壁の奥行きをそのまま伝えてくる。
崖下の水は暗い記憶の層を抱えたまま静止している。
足元の石が微かに揺れ存在の不確かさを示していた。
風は楼閣の輪郭を何度も書き換えながら通り過ぎる。
水面に映る空は破れた膜のように揺らいでいる。
私の足跡はすぐに満ちる水に吸われ消えていった。
遠い楼閣の気配だけが風の中で微かに立ち上がる。
霧は皮膚に薄い膜として貼りつき境界を曖昧にする。
崩れた石段は過去の歩行を吸い込むように沈黙していた。
私は胸の奥に残る湿度の重さを確かめながら進む。
水面の光は刃のように揺れ視界を何度も切り裂いた。
足裏の砂は過去と現在の境を曖昧に混ぜ合わせる。
風が楼閣の残響を運び指先に冷たい余韻を残す。
崖の縁に立つと水の重さが全身にのしかかってくる。
遠い楼閣は波の底で揺れる記憶の影として滲む。
私の呼吸は湿った空気に溶け輪郭を失っていく。
風は見えない手のように肩を押し通り過ぎていく。
水面の揺らぎは楼閣の残像を何度も再生していた。
私は冷えた石の感触に足取りの確かさを問われる。
崩壊した輪郭の間から春の光が細く差し込んでくる。
霧は音を吸い込み時間の流れを鈍く変質させていく。
足元の水は私の影を飲み込み静かに形を変えている。
遠くで崩れる楼閣の気配が潮の匂いに混ざり合う。
私は濡れた石の上で歩行の意味を確かめ続けている。
水面の奥に沈む光が微かに呼吸するように揺れている。
風は楼閣の影をほどきながら私の背を押し続ける。
崖下の水は静かに記憶の重なりを映し返している。
私の足裏には見えない階段の圧がまだ残っていた。
霧の中で楼閣は崩れずにただ形を変え続けている。
水面の微光は春の気配を帯びながら遠ざかっていく。
私は最後の一歩を踏み込み消えない残響だけを受け取る。
水際の空は破れた膜のように揺れ続けていたただ静かに。
楼閣の影は波間でほどけては再び輪郭を結び直す。
私の旅路は湿度の中で静かに層を重ねていった。
風は遠い楼閣の名残を抱きながら消えていくまだ遠くへ。
水面に残る光は境目の時間をゆっくりとほどくかすかにただ。
私は泡のような世界を歩き続けその輪郭を見送る静かに遠くも。
楼閣の影はすでに崩れきることもなく、ただ薄い光として残っていた。
水面は静かに閉じ、境界の揺らぎだけが遠くで呼吸している。
私はその場に立ちながら、歩き続けてきた時間の重さを足裏で確かめる。
風は往路と同じ温度を持たず、記憶の層をひとつずつ剥がしていく。
湿った気配だけがまだ肩に残り、過ぎ去った楼閣の輪郭をなぞっていた。
遠くで光がほどけ、旅の終わりではなく継ぎ目が現れる。
私は再び歩き出す準備もなく、ただ泡沫の余韻の中に身を置く。
消えたはずの道が水面の奥でわずかに再生し続けている。
その揺らぎに導かれ、旅は終わらずに形を変えていく。