泡沫紀行   作:みどりのかけら

1715 / 1716
薄い夜明けの層がまだ剥がれきらず、世界は半ば眠ったまま揺れていた。
私は名もない縁を辿り、湿った空気の重さに足を預ける。
遠くで形を持たない光が滲み、歩みの理由だけが静かに残っている。


地面は柔らかく、踏むたびに記憶のような反発を返す。
風は低く流れ、肌の表面をなぞるたびに温度を変える。
そのすべてが始まりではなく、すでに続きの中にある感触だった。


境界の薄い層が揺れ、視界はまだ完全に定まらない。
私はその曖昧さを壊さぬよう、呼吸を浅く整える。
歩くという行為だけが、かろうじて輪郭を保っていた。



1715 花霞の見守り丘

旅人として私は薄い層の世界の縁を歩いた。

足裏に湿った微光が沈み、地面は記憶のように柔らかい。

空は名付けぬ色で揺れ、境目だけが息をしていた。

 

 

丘へ向かう斜面は風の重さで形を変える。

草は水気を含み、触れた指へ過去の温度を返した。

足元の影は遅れてほどけ、追いつく気配を失う。

 

 

見えない残響が土の下で静かに回転していた。

私はその揺れに合わせ呼吸を浅く整える。

風は記憶を運び、耳の内側に湿った圧を残す。

 

 

花霞の層が丘に滞留し視界を曖昧にした。

それは霧より軽く光より遅く、触れると崩れる。

崩れた粒子は肌に残り冷たさとして居座った。

 

 

土は歩くたび沈み遠い音を吸い込む。

沈黙の厚みが時間の層を増やしていく。

私は速度を落とし均衡を探りながら進む。

 

 

丘の途中で空間の温度が一段だけ下がる。

視線のような圧が背を押し進行を示した。

誰もいないのに気配だけが残っていた。

 

 

花霞へ指を差し入れると微かな震えが走る。

その震えは骨へ伝わり無音の響きを生んだ。

内側が少しずつ削られていく感覚が残る。

 

 

道は境界を失い細い線のように続く。

前後の感覚だけを頼りに歩き続けた。

湿度が唯一の進行方向の印となる。

 

 

空気は甘い匂いを含み記憶を撫でる。

誰かの落とした気配の残り香が漂う。

吸い込むほどに名のない安心が広がる。

 

 

花霞の奥で輪郭が揺れては消える。

存在と非存在の間の現象がただ続く。

私は見届けず通り過ぎる。

 

 

丘の頂へ近づくほど風は音を失う。

重さだけが肩に積もり時間を厚くする。

歩幅は自然に狭まり密度へ合わせられる。

 

 

裂け目から淡い光が呼吸のように明滅する。

その光が影を分解し過去へ分岐させた。

どの過去にも戻る理由はない。

 

 

花霞は丘の記憶へ溶け込んでいく。

境界を失った空間で足が止まりかける。

それでも身体は微かに前へ傾く。

 

 

足裏の振動が誰かの痕跡と重なる。

時間の揺らぎへ身を預けるように進む。

重心だけが静かに移動していく。

 

 

空は低く光は膜のように丘を覆う。

呼吸は内と外の境を曖昧にする。

身体は風へ溶けていく。

 

 

花霞の粒子が肩に積もり温度だけを残す。

私はそれを受け入れたまま歩き続ける。

 

 

丘の上には沈黙の濃い空間が開いていた。

時間が一度だけ止まり再び流れた痕跡がある。

 

 

風は縫い目をなぞり世界の境をほどく。

私の存在は薄く引き伸ばされていく。

 

 

花霞は明度を残して地表へ沈む。

それは別の層への移行として続いていく。

 

 

すべての重さが均等になり歩みは止まる。

私は記憶の膜の内側に残り続ける。

 

 

停止した身体の内側で、花霞の残滓が静かに沈殿した。

境目の消えた足元には、遅れて来るような風だけが触れている。

私は動かないまま、世界の呼吸だけを受け取っていた。

 

 

丘の沈黙はさらに深く層を増し、時間の輪郭を失わせる。

肌に触れる光は温度を持たず、ただ記憶の形だけを残した。

私は自分の影が薄れていく様子を、内側から感じ取る。

 

 

やがて花霞は完全に静まり、境界は最初から無かったように整う。

歩みの感覚だけが遠くに残り、私はその余韻へ沈んでいく。

 




花霞は沈黙の底へ溶け、丘の輪郭は静かに均されていった。
残されたのは歩みの余韻だけで、それも徐々に温度を失う。
私はその消失を止めることなく、ただ受け入れていた。


世界はもはや区切りを持たず、連続した薄い層へと戻る。
触れていたはずの重さも、今は軽い記憶の粒となって漂う。
足元の感覚だけが、遠い証のように残響している。


やがてすべては同じ静けさへ溶け、境目は最初から無かったように整う。
私はそこに留まらず、薄い余白へと歩みをほどいていく。
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