私はその薄い明度の中を、輪郭の定まらぬまま歩き出す。
地面は固体と液体の間で揺れ、足裏の記憶を曖昧にほどく。
風は始まりを告げるでもなく、ただ湿度の偏りとして頬を撫でる。
遠い壁の気配だけが、まだ存在しない都の位置を示している。
歩みは目的を持たず、しかし確かな重さとして続いていく。
空は開かれているのに、どこか閉じた膜の内側にいるようだ。
呼吸するたびに微光が肺の奥へ沈み、時間の輪郭が遅れていく。
私はその遅延の中で、旅の始点に似た沈黙を受け取る。
泡沫の層を歩き続ける旅の身である。
白壁の残響だけが連なる都に風が差し込む。
春の光は揺れながら地面の温度を浅くする。
足裏に砕けた石灰の粒が沈み込む。
その圧が歩行の記憶をゆっくりと削る。
壁は声なき気配を返し風だけが輪郭を持つ。
城の痕跡と呼ばれる空隙が視界の奥へ伸びる。
手を伸ばせば湿った空気が指の間で重く絡む。
触れた瞬間に過去の温度だけが遅れて滲む。
白壁は崩れながらも立ち尽くす姿勢を保つ。
その表面を風が撫でるたび微細な砂が舞う。
旅の身体はその振動を骨へと受け渡す。
春の風は一定の方向を持たずに折れ曲がる。
耳に届くのは言葉ではなく擦過する余韻である。
それが誰かの残響であったかは判別できない。
地面はかすかに湿り歩くたびに重さが増す。
靴底の感覚は薄く溶け境界が曖昧になる。
都の輪郭は霧の内側へ沈んでいく。
高くない壁の列が迷路のように続く。
そこに触れると冷たさが遅れて腕へ戻る。
身体の時間だけが風景とずれていく。
春光は白の粒子となり空間に漂う。
その粒は呼吸のたびに胸へ入り込む。
内側で微かな圧力が静かに増減する。
かつての中心と呼ばれた空白へ近づく。
そこには音のない層が幾重にも折り重なる。
足を踏み入れると沈黙が重力を持つ。
風は壁の裂け目を通り抜け低く唸る。
その振動が皮膚の表面を薄く震わせる。
旅の輪郭が風に削られていく感覚がある。
崩れた石の縁に指先を滑らせる。
冷えた粒子が爪の隙間へ潜り込む。
そこに残るのは形ではなく抵抗の記憶である。
空は高く曇り光は均質に拡散している。
影は生まれず身体の輪郭だけが曖昧になる。
自分の存在も壁と同化しそうになる。
風が一瞬だけ止み世界が薄く張り詰める。
その静止は肌の内側に重く沈殿する。
次の瞬間に再び流れが戻る。
白壁の奥に見えない通路の気配がある。
そこへ近づくほど足音の感覚が遠のく。
代わりに心臓の律動だけが強く響く。
春の湿度は衣の重さを静かに増やす。
肩から落ちる水分の気配が時間を鈍らせる。
歩みは風景に溶けるように遅くなる。
壁面に触れると微細な温度差が指に残る。
それは誰かの痕跡のように淡く続く。
記憶のない記憶だけがそこに在る。
都の中心はもはや空洞として広がっている。
そこに風が集まり円環を描いている。
身体はその縁をなぞるだけで精一杯になる。
足元の石が崩れ小さな音も吸収される。
音の消失が逆に空間を濃くしていく。
触覚だけが唯一の確かさとして残る。
白壁の残響はやがて風と同化していく。
境界が消え世界は一枚の薄膜になる。
その薄さの中で歩行だけが続いている。
春の微光が背後から静かにかすかに遠ざかる。
都の名を持たぬ都は沈黙のまま深く呼吸する。
旅の身は次の泡沫へとただそっと足を預ける。
白壁の残響はすでに風と区別できないほど薄れている。
私はその境界が解けた場所を、振動だけで踏みしめている。
歩行の痕跡は地面に残らず、ただ温度の差として消えていく。
春の微光は背後へ退き、都の空洞だけが静かに呼吸している。
触れていたはずの輪郭は、今や空気の密度としてしか感じられない。
私はその密度の中を抜け、次の泡沫へと向かう余白を得る。
最後に残るのは風でも壁でもなく、歩き続けた圧の記憶である。
それは身体の内側で微かに反転し、まだ見ぬ地平の予兆となる。
私は名のない出口を振り返らず、そのまま沈黙へ溶けていく。