泡沫紀行   作:みどりのかけら

1716 / 1718
泡沫の層にまだ名のない朝が滲んでいる。
私はその薄い明度の中を、輪郭の定まらぬまま歩き出す。
地面は固体と液体の間で揺れ、足裏の記憶を曖昧にほどく。


風は始まりを告げるでもなく、ただ湿度の偏りとして頬を撫でる。
遠い壁の気配だけが、まだ存在しない都の位置を示している。
歩みは目的を持たず、しかし確かな重さとして続いていく。


空は開かれているのに、どこか閉じた膜の内側にいるようだ。
呼吸するたびに微光が肺の奥へ沈み、時間の輪郭が遅れていく。
私はその遅延の中で、旅の始点に似た沈黙を受け取る。



1716 風語る白壁の残響都

泡沫の層を歩き続ける旅の身である。

白壁の残響だけが連なる都に風が差し込む。

春の光は揺れながら地面の温度を浅くする。

 

 

足裏に砕けた石灰の粒が沈み込む。

その圧が歩行の記憶をゆっくりと削る。

壁は声なき気配を返し風だけが輪郭を持つ。

 

 

城の痕跡と呼ばれる空隙が視界の奥へ伸びる。

手を伸ばせば湿った空気が指の間で重く絡む。

触れた瞬間に過去の温度だけが遅れて滲む。

 

 

白壁は崩れながらも立ち尽くす姿勢を保つ。

その表面を風が撫でるたび微細な砂が舞う。

旅の身体はその振動を骨へと受け渡す。

 

 

春の風は一定の方向を持たずに折れ曲がる。

耳に届くのは言葉ではなく擦過する余韻である。

それが誰かの残響であったかは判別できない。

 

 

地面はかすかに湿り歩くたびに重さが増す。

靴底の感覚は薄く溶け境界が曖昧になる。

都の輪郭は霧の内側へ沈んでいく。

 

 

高くない壁の列が迷路のように続く。

そこに触れると冷たさが遅れて腕へ戻る。

身体の時間だけが風景とずれていく。

 

 

春光は白の粒子となり空間に漂う。

その粒は呼吸のたびに胸へ入り込む。

内側で微かな圧力が静かに増減する。

 

 

かつての中心と呼ばれた空白へ近づく。

そこには音のない層が幾重にも折り重なる。

足を踏み入れると沈黙が重力を持つ。

 

 

風は壁の裂け目を通り抜け低く唸る。

その振動が皮膚の表面を薄く震わせる。

旅の輪郭が風に削られていく感覚がある。

 

 

崩れた石の縁に指先を滑らせる。

冷えた粒子が爪の隙間へ潜り込む。

そこに残るのは形ではなく抵抗の記憶である。

 

 

空は高く曇り光は均質に拡散している。

影は生まれず身体の輪郭だけが曖昧になる。

自分の存在も壁と同化しそうになる。

 

 

風が一瞬だけ止み世界が薄く張り詰める。

その静止は肌の内側に重く沈殿する。

次の瞬間に再び流れが戻る。

 

 

白壁の奥に見えない通路の気配がある。

そこへ近づくほど足音の感覚が遠のく。

代わりに心臓の律動だけが強く響く。

 

 

春の湿度は衣の重さを静かに増やす。

肩から落ちる水分の気配が時間を鈍らせる。

歩みは風景に溶けるように遅くなる。

 

 

壁面に触れると微細な温度差が指に残る。

それは誰かの痕跡のように淡く続く。

記憶のない記憶だけがそこに在る。

 

 

都の中心はもはや空洞として広がっている。

そこに風が集まり円環を描いている。

身体はその縁をなぞるだけで精一杯になる。

 

 

足元の石が崩れ小さな音も吸収される。

音の消失が逆に空間を濃くしていく。

触覚だけが唯一の確かさとして残る。

 

 

白壁の残響はやがて風と同化していく。

境界が消え世界は一枚の薄膜になる。

その薄さの中で歩行だけが続いている。

 

 

春の微光が背後から静かにかすかに遠ざかる。

都の名を持たぬ都は沈黙のまま深く呼吸する。

旅の身は次の泡沫へとただそっと足を預ける。

 




白壁の残響はすでに風と区別できないほど薄れている。
私はその境界が解けた場所を、振動だけで踏みしめている。
歩行の痕跡は地面に残らず、ただ温度の差として消えていく。


春の微光は背後へ退き、都の空洞だけが静かに呼吸している。
触れていたはずの輪郭は、今や空気の密度としてしか感じられない。
私はその密度の中を抜け、次の泡沫へと向かう余白を得る。


最後に残るのは風でも壁でもなく、歩き続けた圧の記憶である。
それは身体の内側で微かに反転し、まだ見ぬ地平の予兆となる。
私は名のない出口を振り返らず、そのまま沈黙へ溶けていく。
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