泡沫紀行   作:みどりのかけら

1727 / 1735
まだ名を持たない朝が水平の淡さへ溶け、私は境界とも浜辺とも呼べぬ白い縁を歩いていた。
波は寄せるたび昨日の形を忘れ、足元には新しい砂の記憶だけが静かに積もってゆく。


遠くに細長い影が霞み、その輪郭だけが風を受け止めていた。
そこへ近づくほど空気はわずかに重さを増し、胸の奥ではなく肩先へ静かな湿りが宿った。


旅の始まりはいつも一歩目ではなく、足裏が異なる時の流れへ触れた瞬間に訪れる。
私は息を浅く整え、揺れる松影の待つ結界林へ向かって歩き続けた。



1727 松影が揺れる海辺の結界林

松影は海霧の縁でゆるくほどけ、境目だけが淡く息をしていた。

私は砂の湿りを靴底ではなく足裏の記憶で受け止め、結界林へ歩み寄った。

 

 

枝先を抜ける風は冷たさより重みを運び、肩へ薄い布のように掛かった。

潮の匂いは塩ではなく、時を洗い流したあとの静かな白さを含んでいた。

 

 

松の根は浅く見えて深く沈み、踏みしめるたび脈が返ってきた。

土の柔らかさは私の重さを量り、歩幅を少しずつ細く整えてゆく。

 

 

林の内側では光が葉ごとに刻まれ、昼と夕が重なって揺れた。

まぶたへ届く明るさは細かな粒となり、皮膚の奥でゆっくりほどけた。

 

 

砂粒は乾き切らず、指先へ触れるたび薄い温度差を残した。

その温度の隙間には誰かの余韻だけが静かに沈んでいた。

 

 

波は寄せても境を越えず、白い縁だけを何度も描き直した。

寄せ返す圧は胸骨へ淡く届き、息の深さだけを少し変えた。

 

 

幹へ手を添えると樹皮は粗く、それでも奥には水脈のような柔らかさがあった。

指先は木肌よりも時間へ触れているようで、離れるまで軽く震えた。

 

 

林床には細い影が折り重なり、踏み入るたび形を変え続けた。

影は遅れて足首へ絡み、歩いた距離を静かな重みへ編み替えた。

 

 

遠くで気配が波紋となり、言葉にならぬまま風へ溶けていった。

残響だけが枝を揺らし、空白には柔らかな湿度が満ちていた。

 

 

空は薄青く澄みながら、どこか内側だけ曇って見えた。

私は額へ落ちる冷気を受け、その曇りを身体の深さで測った。

 

 

結界は壁ではなく、触れれば消える膜のように漂っていた。

腕を進めるたび空気の密度が変わり、皮膚が静かに引き戻された。

 

 

砂丘の起伏は波より古く、足裏へ柔らかな地図を刻み続けた。

私はその凹凸を読むほどに、行き先より歩みそのものへ近づいた。

 

 

葉擦れは細かな光となり、肩口へ絶えず降り積もった。

重さのない輝きなのに、背筋だけは少し深く伸びていった。

 

 

海面は鏡になり切れず、砕けた時刻を幾つも浮かべていた。

その欠片は目ではなく掌へ映り、冷たい輪郭だけを残した。

 

 

林を抜ける風圧は柔らかく、それでも進む向きを静かに試した。

私は押し返さず受け流し、身体を少し傾けて境目を渡った。

 

 

振り返れば松影は最初より淡く、輪郭だけが潮煙へ残っていた。

足跡は浅く続き、やがて砂の息遣いへ静かに溶け込んだ。

 

 

遠い余熱が背中へ触れ、誰でもない痕跡だけを運んできた。

その温もりは名前を持たず、旅路の襞へ折り重なる薄布のようだった。

 

 

私はなお歩き、時の境目に在る微光を胸ではなく足裏へ宿した。

結界林は泡沫の世界へ静かに沈み、それでも松影だけは風の深さで揺れ続けた。

 

 

潮の粒は頬をかすめ、乾きかけた皮膚へ細い筋を残した。

その冷えはやがて体温へ溶け込み、境目の輪郭だけを静かに澄ませていった。

 

 

松葉の落ちる気配は音にならず、足元の砂紋だけをわずかに揺らした。

私はその揺れを踏み越えず、足先へ集まる柔らかな圧を受け止めながら歩みを重ねた。

 

 

海霧は林の奥から薄くほどけ、時を包んでいた膜をゆるやかに開いていった。

振り返ることなく進む私の背には淡い光だけが寄り添い、泡沫の異世界は次の境目へ静かに続いていた。

 




結界林を離れたあとも、潮の気配は衣のように身体から離れなかった。
足裏には砂の柔らかな起伏が残り、歩くたび見えない浜辺が静かに続いていた。


振り返る先に松影はもう見えず、それでも風だけが同じ深さで肩をなでていく。
境目を越えたものは景色ではなく、時間へ触れた身体の感触だったのかもしれない。


泡沫の異世界は訪れた者を留めず、ただ歩いた重さだけを淡く受け継いでゆく。
私は次の微かな光を探しながら、名もない道へ静かな歩幅を預けた。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。